れてあった。牛の踏みちらした牧場の草地へはところどころに白い鶏の来るのも見えた。岸本がそこへ行って草を藉《し》き足を投出して見た時は、あの四時間も五時間も高瀬と一緒に警察署の側《わき》に立ちつづけたような巴里の混乱から逃《のが》れて来たというばかりでなく、仏蘭西の旅に来てからの初めての休息らしい休息をそのヴィエンヌの河畔に見つけたように思った。
九十八
二月《ふたつき》近く静かな田舎に暮して見ると、欧羅巴《ヨーロッパ》へ来てから以来《このかた》のことばかりでなく、国を出た当時のことまでが何となく岸本の胸に纏《まと》まって来た。彼はそう思った。仮りに人生の審判があって、自分もまた一被告として立たせらるるという場合に当り、いかなる心理を盾《たて》として自己《おのれ》の内部《なか》に起って来たことを言い尽すことが出来ようかと。何物を犠牲にしても生きなければ成らなかったような一生の危機に際会したものが、どうして明白な、条理《すじみち》の立った、矛盾の無い、道理に叶《かな》ったことが言えよう。長い限りの無い悪夢にでも襲われたようにして起って来た恐怖――親戚《しんせき》や友人に対してさえ制《おさ》えることの出来なかった猜疑心《さいぎしん》――眼に見えない迫害の力の前に恐れ戦《おのの》いた彼のたましい――夢のように急いで来た遠い波の上――知らない人の中へ行こうとのみした名のつけようの無い悲哀――何という恐ろしい眼に遭遇《であ》ったろう。何という心の狼狽《ろうばい》を重ねたろう。何という一生の失敗だったろう。この深い感銘は時と共にますますはっきりとして来ることは有っても、薄らいで行くようなものでは無かった。しかし一時のような激しい精神《こころ》の動揺は次第に彼から離れて行った。不幸な姪《めい》に対する心地《こころもち》のみが残るように成って行った。その時になって彼は心静かに自分の行為《おこない》を振返って見た。どうかして生きたいと思うばかりに犯した罪を葬り隠そう葬り隠そうとした彼は、仮令《たとえ》いかなる苦難を負おうとも、一度姪に負わせた深傷《ふかで》や自分の生涯に留めた汚点をどうすることも出来ないかのように思って来た。彼は自分を責めれば責めるほど、涙ぐましいような気にさえ成った。
その心で、岸本は田舎家の裏にある野菜畠へ行った。一すじの小径《こみち》を中央
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