ようであった。
岸本がアウストリア対セルビア宣戦の布告を読んだのは、丁度その自分の仕事に取掛っている時であった。一日は一日より何となく町々の様子がおだやかでなくなって来た。不思議な、圧《お》しつけるような、底気味の悪い沈黙は町々を支配し始めた。岸本が毎日食堂で見る顔触《かおぶれ》は、産科病院|側《わき》の旅館から通って来る柳博士に隣室の高瀬の二人で、若い独逸《ドイツ》人の客は最早《もう》見えなかった。食堂へ集る度に、高瀬等と岸本とは互いに不思議な顔を見合せるように成って行った。
来《きた》るべき大きな出来事の破裂を暗示するような不安な空気の中で、岸本は仕事を急いだ。あのノルマンディ生れの仏蘭西の作家が「聖アントワンヌの誘惑」を起稿したのは普仏戦争の最中で、巴里の籠城《ろうじょう》中に筆を執ったとやら。丁度あの作家は五十歳でその創作を思い立ったとやら。岸本はそんなことを旅の身に想像し、国の方に居る頃から友達とよく話し合ったあの作家が四十何年か前には巴里で物を書いていたことを想像し、それによって自分を慰め励まそうとした。時々彼は執りかけた筆を置いて、部屋の窓へ行って見た。驟雨《しゅうう》のまさに来ようとする前のようなシーンとした静かさが感じられた。食堂の方へも行って見た。そこには、おそろしく倹約に暮している下宿の主婦《かみさん》が、燈火《あかり》を点《つ》け惜んで、薄暗い食堂の隅《すみ》に前途の不安を思いながらションボリ立っていた。
「岸本さん、御覧なさい、あれは何かの前兆です」
と主婦は食堂の窓の側に立って、黄昏時《たそがれどき》の空気のために紅味勝《あかみが》ちな紫色に染まった産科病院の建築物《たてもの》を岸本に指《さ》して見せた。主婦の姪《めい》でリモオジュの田舎《いなか》の方から来ている髪の赤く縮れた娘も一緒にその窓から血の色のような夕映《ゆうやけ》を眺めた。
「戦争は避けられないかも知れませんよ」
と言って主婦は仏蘭西人らしく肩を動《ゆす》って見せた。
アウストリア対セルビア宣戦の日から数えて六日目頃に、漸《ようや》く岸本は国の方へ郵便で送るだけの仕事の一部を終った。日頃|往来《ゆきき》の人の多い並木街も何となく寂しく、出歩くものすら少かった。
九十一
平和な巴里の舞台は実に急激な勢いをもって変って行った。今日動員令が下るか明日
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