サうなことをした」この憐《あわれ》みの心は自ら責むる心と一緒になって何時でも岸本に起って来た。
異郷の旅の心を慰めるために、岸本は自分の部屋にある箪笥《たんす》の前に行った。箪笥とは言っても、鏡を張った開き戸のある置戸棚《おきとだな》に近い。その抽筐《ひきだし》の中から国の方の親戚や友人の写真を取出した。義雄兄の家族一同で撮《と》った写真も出て来た。それは最近に東京から送って来たのであった。高輪の家の庭の一部がそっくりその写真の中にある。南向の縁側の上には蒲団《ふとん》を敷いて坐った祖母《おばあ》さんが居る。庭には嬰児《あかご》を抱いて立つ輝子が一番前の方に居る。二人の少年が庭石の上に立っている。その一人は義雄兄の子供で、一人は繁だ。兄さんらしく撮れた泉太の姿をその弟の傍に見ることも出来る。義雄兄が居る。嫂が居る。嫂はその家で生れた男の児を抱いている。岸本は兄夫婦の写真顔をすら平気では眺《なが》められなかった。一番|後方《うしろ》に立つのが変り果てた節子の面影であった。娘らしく豊かな以前の胸のあたりは最早彼女に見られなかった。特色のある長い生《は》えさがりは一層彼女の頬《ほお》を痩《や》せ細ったように見せていた。
「自分は、人一人をこんなにしてしまったのか」
それを思うと岸本は恐ろしくなってその写真を抽筐の底に隠した。
六十五
山羊《やぎ》の乳売の笛で岸本は自分の部屋に眼を覚《さ》ました。巴里《パリ》のような大きな都会の空気の中にもそうした牧歌的なメロディの流れているかと思われるような笛の音《ね》がまだ朝の中の硝子窓に伝わって来た。旅らしい心持で、その細い清《す》んだ音に耳を澄ましながら、岸本は窓に向いた机のところで小さな朝飯の盆に対《むか》った。それを済ました時分に、女中が来てコンコンと軽く部屋の戸を叩《たた》く音をさせた。何時でも西伯利亜《シベリア》経由とした郵便物の来るのは朝の配達と極《きま》っていた。その時彼は新聞や雑誌や手紙の集まったのをドカリと一時に受取った。待たれた故国からの便りの中には、節子の手紙も混っていた。
「ホウ、泉ちゃんが御清書を送ってよこした」
と岸本は言って見て、外国に居て見ればめずらしいほど大きく書いた子供の文字を展《ひろ》げて見た。それから節子の手紙を読んだ。何と言ってよこしても直接には答えないで黙っている
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