ヘ心細いほど抜けた、この次叔父さんにお目にかかるのも恥かしいほど赤く短く切れてしまったと書いてよこした。
 この節子の手紙を読んで、岸本は心から深い溜息《ためいき》を吐《つ》いた。彼はいくらか重荷をおろしたような気がした。しかしそのために、一度つけてしまった生涯の汚点は打消すべくもなかった。埋めようとすればするほど、余計に罪過は彼の心の底に生きて来た。彼は多くもない旅費の中を割《さ》いて節子が身二つに成るまでの一切の入費に宛《あ》てて来たし、外国から留守宅への仕送りも欠かすことは出来なかったし、義雄兄から請求して来た節子の手術に要する費用も負担せねば成らなかった。旅も容易でなかった。それにも関《かかわ》らず、彼は行けるところまで行こうとした。

        六十三

 東京|高輪《たかなわ》の留守宅の方に節子を隠して置て嫂《あによめ》の上京も待たずに旅に上って来た心持から言っても、義雄兄に宛てた一通の手紙を残して置いて香港《ホンコン》を離れて来た心持から言っても、岸本は再び兄夫婦を見るつもりで国を出たものではなかった。節子は旅にある叔父に便りすることを忘れないで、彼女が郡部にある片田舎から高輪の方へ戻った時にも精しい手紙を送ってよこしたが、その便りが岸本の手許《てもと》へ着いた頃は、最早ノエル(降誕祭)の季節の近づく年の暮であった。異郷で初めて逢《あ》う正月、羅馬《ローマ》旧教国らしいカアナバルの祭、その肉食の火曜も、ミ・カレエムの日も、彼の旅の心を深くした。彼の下宿には独逸《ドイツ》のミュウニッヒの方から来た慶応の留学生を迎えたり、瑞西《スイス》の方へ行く人を送ったりしたが、それらの人達と連立ってルュキサンブウルの美術館を訪《たず》ねた時でも、ガボオの音楽堂に上った時でも、何時《いつ》でも彼は心の飄泊者《ひょうはくしゃ》としてであった。
「人はいかなる境涯にも慣れるもので、それがまた吾儕《われら》に与えられたる自然の恵みである」と言った人もあったとやら。ある人はまた、「慣れるということほど恐ろしいものは無い」とも言ったとやら。岸本はその二つの言葉の意味に籠《こも》る両様の気質と真実とを味《あじわ》い知った。所詮《しょせん》彼とても慣れずにはいられなかった。そして高い建築物《たてもの》もさ程気に成らず、往来も平気で歩かれ、全く日本風の畳というものも無い部屋に一日
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