タ木も枯々としていた。岸本の心は静かではなかった。三年近い岸本の独身は決して彼の心を静かにさせては置かなかった。「お前はどうするつもりだ。何時《いつ》までお前はそうして独《ひと》りで暮しているつもりだ。お前の沈黙、お前の労苦には一体何の意味があるのだ。お前の独身は人の噂《うわさ》にまで上《のぼ》っているではないか」こう他《ひと》から言われることがあっても、彼は何と言って答えて可《い》いかを知らなかった。ある時は彼は北海道の曠野《こうや》に立つという寂しいトラピストの修道院に自分の部屋を譬《たと》えて見たこともある。先《ま》ず自己の墓を築いて置いて粗衣粗食で激しく労働しつつ無言の行をやるというあの修道院の内の僧侶《ぼうさん》達に自分の身を譬えて見たこともある。「自分はもう考えまいと思うけれども、どうしても考えずにはいられない」と言った人もあったとやら。岸本が矢張それだ。唯《ただ》彼は考えつづけて来た。
河岸の船宿の前には石垣の近くに寄せて繋《つな》いである三四|艘《そう》の小舟も見えた。岸本はつくづく澱《よど》み果てた自分の生活の恐ろしさから遁《のが》れようとして、二夏ばかり熱心に小舟を漕《こ》いで見たこともあった。その夏と、その前の年の夏と。もうどうにもこうにも遣切《やりき》れなくなって、そんなことを思いついた。彼が自分の部屋にジッと孤坐《すわ》ったぎり終《しまい》には身動きすることさえも厭《いと》わしく思うように成った二階から無理に降りて来て、毎朝早く小舟を出したのもその河岸だ。どうかすると湖水のように静かな隅田川《すみだがわ》の水の上へ出て、都会の真中とも思われないほど清い夏の朝の空気を胸一ぱいに吸って、復《ま》た多くの荷船の通う中を漕ぎ帰って来たのもその石垣の側だ。
「岸本さん」
と呼びかけて彼の方へ歩いて来る一人の少年があった。河岸の船宿の総領|子息《むすこ》だ。
「こう寒くちゃ、舟もお仕舞《しまい》だね」
と岸本も忸々《なれなれ》しく言った。彼は十五六ばかりになるその少年を小舟に乗る時の相手として、よく船宿から借りて連れて行った。少年ながらに櫓《ろ》を押すことは巧みであった。
船宿の子息は岸本の顔を見ながら、
「貴方《あなた》のとこの泉《せん》ちゃんには、よく逢《あ》いますよ」
「君は泉ちゃんを知ってるんですか」と岸本が言った。彼はその少年の口から
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