ソがたった一枚残っていました。でも随分長いこと有りました。十何年も大切にして置いて、毎年袷時には出して着ましたが、まだそっくりしています。木綿《もめん》に糸がすこし入っていて私の一番好きな着物です。惜しいけれども仕方が無い。まあ、これは兄さんの方へ進《あ》げる」
「じゃ、俺がまた貰っといて着てやるわい」
兄弟はこんな言葉をかわした。岸本はその母の手織にしたものを形見として兄に残して置いて、すっかり旅人の姿になった。
四十九
隠れた罪を犯したものの苦難を負うべき時が来た。ひょっとするとこれを神戸の見納《みおさ》めとしなければ成らないような遠い旅に上るべき時が来た。そろそろ夕飯時に近い頃であった。船まで見送ろうという友人や民助兄と連立って岸本は宿屋を出た。御影から来た二人の婦人も岸本に随《つ》いて歩いて来た。
長い坂になった町が皆の眼にあった。一同はその坂を下りたところで物食う場処を探した。ある料理屋の前まで行くと、二人の婦人はそこで岸本に別れを告げた。友人等の案内で、岸本はその料理屋の一間に互いに別れの酒を酌《く》みかわした。弟の外遊を何か誉あることのようにして盃《さかずき》をくれる民助兄に対しても、わざわざ堺から逢いに来てくれた赤城に対しても、初めて顔を合せた御影に対しても、それから番町のような友人に対しても、岸本はそれぞれ別の意味で羞恥《はじ》の籠《こも》った感謝の盃を酬《むく》いた。
やがてその料理屋を出た頃は日もすっかり暮れていた。全く言葉の通じない仏蘭西船に上るということは、それだけでも酷《ひど》く岸本の心を不安にした。町々を包む夜の闇《やみ》はひしひしと彼の身に迫って来た。
「言葉が通じないというのも、旅の面白味の一つじゃ有りませんか」
この番町の言葉に励まされて、岸本は皆と一緒に波止場《はとば》の方へ歩いて行った。神戸を去る前に、彼は是非とも名古屋の義雄兄に宛《あ》てた手紙を残して行くつもりで、幾度かあの宿屋の二階でそれを試みたか知れなかった。どうしても、その手紙は彼には書けなかった。彼はどういう言葉でもって自分の心を言いあらわして可《い》いかを知らなかった。そこには言葉も無かった。仕方なしに船に乗ってから書くことにして、到頭彼はその手紙を残さずにランチに乗移った。
暗い海上に浮ぶ本船へは、友人や兄などの外に岸本を見送ろう
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