。「袖子《そでこ》さんは私《わたし》が休《やす》ませたんですよ――きょうは私《わたし》が休《やす》ませたんですよ。」
不思議《ふしぎ》な沈黙《ちんもく》が続《つづ》いた。父《とう》さんでさえそれを説《と》き明《あ》かすことが出来《でき》なかった。ただただ父《とう》さんは黙《だま》って、袖子《そでこ》の寝《ね》ている部屋《へや》の外《そと》の廊下《ろうか》を往《い》ったり来《き》たりした。あだかも袖子《そでこ》の子供《こども》の日《ひ》が最早《もはや》終《お》わりを告《つ》げたかのように――いつまでもそう父《とう》さんの人形娘《にんぎょうむすめ》ではいないような、ある待《ま》ち受《う》けた日《ひ》が、とうとう父《とう》さんの眼《め》の前《まえ》へやって来《き》たかのように。
「お初《はつ》、袖《そで》ちゃんのことはお前《まえ》によく頼《たの》んだぜ。」
父《とう》さんはそれだけのことを言《い》いにくそうに言《い》って、また自分《じぶん》の部屋《へや》の方《ほう》へ戻《もど》って行《い》った。こんな悩《なや》ましい、言《い》うに言《い》われぬ一|日《にち》を袖子《そでこ》は床《とこ》の上《うえ》に送《おく》った。夕方《ゆうがた》には多勢《おおぜい》のちいさな子供《こども》の声《こえ》にまじって例《れい》の光子《みつこ》さんの甲高《かんだか》い声《こえ》も家《いえ》の外《そと》に響《ひび》いたが、袖子《そでこ》はそれを寝《ね》ながら聞《き》いていた。庭《にわ》の若草《わかくさ》の芽《め》も一晩《ひとばん》のうちに伸《の》びるような暖《あたた》かい春《はる》の宵《よい》ながらに悲《かな》しい思《おも》いは、ちょうどそのままのように袖子《そでこ》の小《ちい》さな胸《むね》をなやましくした。
翌日《よくじつ》から袖子《そでこ》はお初《はつ》に教《おし》えられたとおりにして、例《れい》のように学校《がっこう》へ出掛《でか》けようとした。その年《とし》の三|月《がつ》に受《う》け損《そこ》なったらまた一|年《ねん》待《ま》たねばならないような、大事《だいじ》な受験《じゅけん》の準備《じゅんび》が彼女《かのじょ》を待《ま》っていた。その時《とき》、お初《はつ》は自分《じぶん》が女《おんな》になった時《とき》のことを言《い》い出《だ》して、
「私《わたし》は十七の時《とき》でしたよ。そんなに自分《じぶん》が遅《おそ》かったものですからね。もっと早《はや》くあなたに話《はな》してあげると好《よ》かった。そのくせ私《わたし》は話《はな》そう話《はな》そうと思《おも》いながら、まだ袖子《そでこ》さんには早《はや》かろうと思《おも》って、今《いま》まで言《い》わずにあったんですよ……つい、自分《じぶん》が遅《おそ》かったものですからね……学校《がっこう》の体操《たいそう》やなんかは、その間《あいだ》、休《やす》んだ方《ほう》がいいんですよ。」
こんな話《はなし》を袖子《そでこ》にして聞《き》かせた。
不安《ふあん》やら、心配《しんぱい》やら、思《おも》い出《だ》したばかりでもきまりのわるく、顔《かお》の紅《あか》くなるような思《おも》いで、袖子《そでこ》は学校《がっこう》への道《みち》を辿《たど》った。この急激《きゅうげき》な変化《へんか》――それを知《し》ってしまえば、心配《しんぱい》もなにもなく、ありふれたことだというこの変化《へんか》を、何《なん》の故《ゆえ》であるのか、何《なん》の為《ため》であるのか、それを袖子《そでこ》は知《し》りたかった。事実上《じじつじょう》の細《こま》かい注意《ちゅうい》を残《のこ》りなくお初《はつ》から教《おし》えられたにしても、こんな時《とき》に母《かあ》さんでも生《い》きていて、その膝《ひざ》に抱《だ》かれたら、としきりに恋《こい》しく思《おも》った。いつものように学校《がっこう》へ行《い》ってみると、袖子《そでこ》はもう以前《いぜん》の自分《じぶん》ではなかった。ことごとに自由《じゆう》を失《うしな》ったようで、あたりが狭《せま》かった。昨日《きのう》までの遊《あそ》びの友達《ともだち》からは遽《にわ》かに遠《とお》のいて、多勢《おおぜい》の友達《ともだち》が先生達《せんせいたち》と縄飛《なわと》びに鞠投《まりな》げに嬉戯《きぎ》するさまを運動場《うんどうじょう》の隅《すみ》にさびしく眺《なが》めつくした。
それから一|週間《しゅうかん》ばかり後《あと》になって、漸《ようや》く袖子《そでこ》はあたりまえのからだに帰《かえ》ることが出来《でき》た。溢《あふ》れて来《く》るものは、すべて清《きよ》い。あだかも春《はる》の雪《ゆき》に濡《ぬ》れて反《かえ》って伸《の》びる力《ちから》を増《ま》す若草《わかく
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