「ちゃあちゃん。」
「はあい――金之助《きんのすけ》さん。」
 お初《はつ》と子供《こども》は、袖子《そでこ》の前《まえ》で、こんな言葉《ことば》をかわしていた。子供《こども》から呼《よ》びかけられるたびに、お初《はつ》は「まあ、可愛《かわい》い」という様子《ようす》をして、同《おな》じことを何度《なんど》も何度《なんど》も繰《く》り返《かえ》した。
「ちゃあちゃん。」
「はあい――金之助《きんのすけ》さん。」
「ちゃあちゃん。」
「はあい――金之助《きんのすけ》さん。」
 あまりお初《はつ》の声《こえ》が高《たか》かったので、そこへ袖子《そでこ》の父《とう》さんが笑顔《えがお》を見《み》せた。
「えらい騒《さわ》ぎだなあ。俺《おれ》は自分《じぶん》の部屋《へや》で聞《き》いていたが、まるで、お前達《まえたち》のは掛《か》け合《あ》いじゃないか。」
「旦那《だんな》さん。」とお初《はつ》は自分《じぶん》でもおかしいように笑《わら》って、やがて袖子《そでこ》と金之助《きんのすけ》さんの顔《かお》を見《み》くらべながら、「こんなに金之助《きんのすけ》さんは私《わたし》にばかりついてしまって……袖子《そでこ》さんと金之助《きんのすけ》さんとは、今日《きょう》は喧嘩《けんか》です。」
 この「喧嘩《けんか》」が父《とう》さんを笑《わら》わせた。
 袖子《そでこ》は手持《ても》ち無沙汰《ぶさた》で、お初《はつ》の側《そば》を離《はな》れないでいる子供《こども》の顔《かお》を見《み》まもった。女《おんな》にもしてみたいほどの色《いろ》の白《しろ》い児《こ》で、優《やさ》しい眉《まゆ》、すこし開《ひら》いた脣《くちびる》、短《みじか》いうぶ毛《げ》のままの髪《かみ》、子供《こども》らしいおでこ――すべて愛《あい》らしかった。何《なん》となく袖子《そでこ》にむかってすねているような無邪気《むじゃき》さは、一層《いっそう》その子供《こども》らしい様子《ようす》を愛《あい》らしく見《み》せた。こんないじらしさは、あの生命《せいめい》のない人形《にんぎょう》にはなかったものだ。
「何《なん》と言《い》っても、金之助《きんのすけ》さんは袖《そで》ちゃんのお人形《にんぎょう》さんだね。」
と言《い》って父《とう》さんは笑《わら》った。
 そういう袖子《そでこ》の父《とう》さんは鰥《やもめ
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