ちゃん。」
 それが茶《ちゃ》の間《ま》へ袖子《そでこ》を探《さが》しに行《ゆ》く時《とき》の子供《こども》の声《こえ》だ。
「ちゃあちゃん。」
 それがまた台所《だいどころ》で働《はたら》いているお初《はつ》を探《さが》す時《とき》の子供《こども》の声《こえ》でもあるのだ。金之助《きんのすけ》さんは、まだよちよちしたおぼつかない足許《あしもと》で、茶《ちゃ》の間《ま》と台所《だいどころ》の間《あいだ》を往《い》ったり来《き》たりして、袖子《そでこ》やお初《はつ》の肩《かた》につかまったり、二人《ふたり》の裾《すそ》にまといついたりして戯《たわむ》れた。
 三|月《がつ》の雪《ゆき》が綿《わた》のように町《まち》へ来《き》て、一晩《ひとばん》のうちに見事《みごと》に溶《と》けてゆく頃《ころ》には、袖子《そでこ》の家《いえ》ではもう光子《みつこ》さんを呼《よ》ぶ声《こえ》が起《お》こらなかった。それが「金之助《きんのすけ》さん、金之助《きんのすけ》さん」に変《か》わった。
「袖子《そでこ》さん、どうしてお遊《あそ》びにならないんですか。わたしをお忘《わす》れになったんですか。」
 近所《きんじょ》の家《いえ》の二|階《かい》の窓《まど》から、光子《みつこ》さんの声《こえ》が聞《き》こえていた。そのませた、小娘《こむすめ》らしい声《こえ》は、春先《はるさき》の町《まち》の空気《くうき》に高《たか》く響《ひび》けて聞《き》こえていた。ちょうど袖子《そでこ》はある高等女学校《こうとうじょがっこう》への受験《じゅけん》の準備《じゅんび》にいそがしい頃《ころ》で、遅《おそ》くなって今《いま》までの学校《がっこう》から帰《かえ》って来《き》た時《とき》に、その光子《みつこ》さんの声《こえ》を聞《き》いた。彼女《かのじょ》は別《べつ》に悪《わる》い顔《かお》もせず、ただそれを聞《き》き流《なが》したままで家《いえ》へ戻《もど》ってみると、茶《ちゃ》の間《ま》の障子《しょうじ》のわきにはお初《はつ》が針仕事《はりしごと》しながら金之助《きんのすけ》さんを遊《あそ》ばせていた。
 どうしたはずみからか、その日《ひ》、袖子《そでこ》は金之助《きんのすけ》さんを怒《おこ》らしてしまった。子供《こども》は袖子《そでこ》の方《ほう》へ来《こ》ないで、お初《はつ》の方《ほう》へばかり行《い》った
前へ 次へ
全12ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング