の帰りがけに、以前の小竹の店へも訪ねて来たことがある。その頃はお三輪の母親もまだ達者、彼女とても女のさかりの年頃であったから、何の気なしにこの訪問者を迎えて、皆で諸国行脚の話なぞを聞いた。彼女の眼に映る住職は眉毛《まゆげ》の長く白い人ではあったが、そんな長途の行脚に疲れて来た様子はすこしも見えなかったことを覚えている。
 何年となく思い出したことのないこの旅の老僧がお三輪の胸に浮んだ。彼女も年をとって見て、不思議と他人の心を読んだ。あれはただの訪問でもなくて、この世の暇乞《いとまご》いであったのだと気がついた。
 お三輪は驚きもし、悲みもした。彼女自身が今は同じように、それとなく親しい人達への別れを告げて行こうとしていたからである。明日もあらば――また東京を見に来る日もあらば――そんな考えが激しく彼女の胸の中を往来するようになった。彼女は自分の長い滞在がこの食堂で働く人達のさまたげになろうかと考え、上京して見て反って浦和へとこころざすようになった。彼女は親に従い、子に従い、孫にまで従って来たように、どんな運命にも逆おうとはしなかった。
「新七、お前さんは築地まであたしを送っておくれ。今度出て来たついでに、従妹《いとこ》のところへも寄って行きたいから」
「お母さん、そうしますか」
 料理場から食堂への通い口に設けてある帳場のところに立って、お三輪は新七とこんな言葉をかわした。帳場のテエブルの上には、前の晩に客へ出したらしい料理の献立なぞも載せてある。雅致のある支那風な桃色の用箋《ようせん》にそれが認《したた》めてある。そんな親切なやりかたがこの池の茶屋へ客の足を向けさせるらしい。お三輪はそこにも広瀬さんや新七の心の働いていることを思った。
「浦和へはあの従妹《いとこ》に送って貰いましょう。お前さんもいそがしそうだから、あたしはもうお暇する」


「お力」
 お三輪は料理場の外へお力を呼んで、帯の間から紙の包を取出した。
「これはすこしばかりだが、料理方の人達に分けておくれ。あのお給仕に出る娘さんにもあげておくれ」
 と言って、お三輪は自分の小遣《こづかい》のうちを手土産がわりに置いて行こうとした。彼女はいくらも小遣を持っていなかったが、そういう時になると多勢奉公人を使ったことのある、気の大きな小竹の隠居に返った。
「御隠居さん、そんなことをなすって下すっちゃ私が困りま
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