顔を見ると、
「今、御隠居さんからお話を伺ってるところです。そう言えば、あの震災の時は先生だっても、面白い服装《なり》をして私共へ尋ねて来て下すったじゃありませんか。ほら、太い青竹なぞを杖《つえ》について……」
「そこから、君、この食堂が生れて来たようなものだよ」
 と言って見せて広瀬さんも笑った。
「でも、御隠居さんが今度出て来て下すって、ほんとに私はうれしい」とお力は半分独りごとのように、「私のようなもののところへも、御恩返しをする日が来たような気もしますよ。何年となく私はこんな日の来るのを待っていたようなものですよ」
 その日はこんな話が尽きなかった。


 久しぶりでお三輪の出て来て見た東京は何となく勝手の違うようなところで、見るもの聞くものが彼女の心を落ちつかせなかった。ここに比べると、浦和の町の方は静かな田舎《いなか》という感じが深い。着いた晩は、お三輪もお力の延べてくれた床に入って、疲れた身体《からだ》を休めようとしたが、生憎《あいにく》と自動車や荷馬車の音が耳についてよくも眠られなかった。この公園に近い休茶屋の外には一晩中こんな車の音が絶えないのかとお三輪に思われた。
 朝になって見ると、広瀬さんは早く魚河岸《うおがし》の方へ出掛けて行く。前の日に見えなかった料理方の人達も帰って来ていて、それぞれ一日の支度を始める。新七もじっとしていなかった。休茶屋の軒先には花やかな提灯《ちょうちん》などを掛け連ねさせ、食堂の旗を出す指図までして廻った。彼はまた、お三輪の見ている前で、食堂の内にある食卓の上までも拭《ふ》いた。
 そこへお力が顔を出した。
「旦那さんはそんなことまでなさらなくてもようござんす。手はいくらもあります。旦那さんは帳場の前に腰掛けていて下さればいい方です」
 とお力は言って、新七の手から布巾《ふきん》を奪い取るようにした。
 魚河岸の方へ行った連中が帰って来てからは、料理場の光景も一層の賑《にぎや》かさを増した。料理方の人達はいずれも白い割烹着に手を通して威勢よく働き始めた。そこにはイキの好い魚を洗うものがある。ここには芋の皮をむき始めるものがある。広瀬さんは背広に長い護謨靴《ゴムぐつ》ばきでその間を歩き廻った。素人《しろうと》ながらに、近海物と、そうでない魚とを見分けることの出来るお三輪は、今|陸《おか》へ揚ったばかりのような黒く濃い斑紋
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