れを聞くと、私も噴飯《ふきだ》さずにはいられなかった。
やがて、三人は口笛を吹き吹き一緒に泊っている旅舎《やどや》の方へ別れて行った。
この温泉から石垣について坂道を上ると、そこに校長の別荘の門がある。楼の名を水明楼としてある。この建物はもと先生の書斎で、士族屋敷の方にあったのを、ここへ移して住まわれるようにしたものだ。閑雅な小楼で、崖に倚《よ》って眺望の好い位置に在る。
先生は共立学校時代の私の英語の先生だ。あの頃は先生も男のさかりで、アアヴィングの「リップ・ヴァン・ウィンクル」などを教えてくれたものだった。その先生が今ではこういうとこに隠れて、花を植えて楽んだり鉱泉に老を養ったりするような、白髯《はくぜん》の翁《おきな》だ。どうかすると先生の口から先生自身がリップ・ヴァン・ウィンクルであるかのような戯談《じょうだん》を聞くこともある。でも先生の雄心は年と共に銷磨《しょうま》し尽すようなものでもない。客が訪ねて行くと、談論風発する。
水明楼へ来る度《たび》に、私は先生の好く整理した書斎を見るのを楽みにする。そればかりではない、千曲川の眺望はその楼上の欄《てすり》に倚りながら恣《ほしいまま》に賞することが出来る。対岸に煙の見えるのは大久保村だ。その下に見える釣橋《つりばし》が戻り橋だ。川向から聞える朝々の鶏の鳴声、毎晩農村に点《つ》く灯《あかり》の色、種々《いろいろ》思いやられる。
楢《なら》の樹蔭《こかげ》
楢の樹蔭。
そこは鹿島神社の境内だ。学校が休みに成ってからも、私はよくその樹蔭を通る。
ある日、鉄道の踏切を越えて、また緑草の間の小径《こみち》へ出た。楢の古木には、角の短い、目の愛らしい小牛が繋《つな》いであった。しばらく私が立って眺めていると、小牛は繋がれたままでぐるぐると廻るうちに、地を引くほどの長い綱を彼方此方《あっちこっち》の楢の幹へすっかり巻き付けて終《しま》った。そして、身動きすることも出来ないように成った。
向の草の中には、赤い馬と白い馬とが繋いであった。
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その五
山の温泉
夕立ともつかず、時雨《しぐれ》ともつかないような、夏から秋に移り変る時の短い雨が来た。草木にそそぐ音は夕立ほど激しくない。最早|初茸《はつだけ》を箱に入れて、木の葉のついた樺色《かばいろ》なやつや、緑青《ろくしょう》がかったやつなぞを近在の老婆達が売りに来る。
一月ばかり前に、私は田沢温泉という方へ出掛けて行って来た。あの話を君にするのを忘れた。
温泉地にも種々《いろいろ》あるが、山の温泉は別種の趣がある。上田町に近い別所温泉なぞは開けた方で、随《したが》って種々の便利も具《そな》わっている。しかし山国らしい温泉の感じは、反《かえ》って不便な田沢、霊泉寺などに多く味《あじわ》われる。あの辺にも相応な温泉宿は無いではないが、なにしろ土地の者が味噌《みそ》や米を携えて労苦を忘れに行くという場所だ。自炊する浴客が多い。宿では部屋だけでも貸す。それに部屋付の竃《かまど》が具えてある。浴客は下駄穿《げたばき》のまま庭から直《すぐ》に楼梯《はしごだん》を上って、楼上の部屋へ通うことも出来る。この土足で昇降《あがりおり》の出来るように作られた建物を見ると、山深いところにある温泉宿の気がする。鹿沢《かざわ》温泉(山の湯)と来たら、それこそ野趣に富んでいるという話だ。
半ば緑葉に包まれ、半ば赤い崖《がけ》に成った山脈に添うて、千曲川の激流を左に望みながら、私は汽車で上田まで乗った。上田橋――赤く塗った鉄橋――あれを渡る時は、大河らしい千曲川の水を眼下《めのした》に眺《なが》めて行った。私は上田附近の平地にある幾多の村落の間を歩いて通った。あの辺はいかにも田舎道《いなかみち》らしい気のするところだ。途中に樹蔭《こかげ》もある。腰掛けて休む粗末な茶屋もある。
青木村というところで、いかに農夫達が労苦するかを見た。彼等の背中に木の葉を挿《さ》して、それを僅《わず》かの日除《ひよけ》としながら、田の草を取って働いていた。私なぞは洋傘《こうもり》でもなければ歩かれない程の熱い日ざかりに。この農村を通り抜けると、すこし白く濁った川に随《つ》いて、谷深く坂道を上るように成る。川の色を見ただけでも、湯場に近づいたことを知る。そのうちに、こんな看板の掛けてあるところへ出た。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 湯 ┃
┃ ※[#ます記号、1−2−23] み や ば ら ┃
┃ 本 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━┛
升屋《ますや》というは眺望の好い温泉宿だ。湯川の流れる音が聞える楼上で、私達の学校
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