古城の附近に幾つとなく有る。それが千曲川《ちくまがわ》の方へ落ちるに随って余程深いものと成っている。私達は城門の横手にある草地を掘返して、テニスのグランドを造っているが、その辺も矢張《やはり》谷の起点の一つだ。M君が小諸に居た頃は、この谷間《たにあい》で水彩画を作ったこともあった。学校の体操教師の話によると、ずっと昔、恐るべき山崩れのあった時、浅間の方から押寄せて来た水がこういう変化のある地勢を造ったとか。
八月のはじめ、私はこの谷の一つを横ぎって、中棚の方へ出掛けた。私の足はよく其方《そちら》へ向いた。そこには鉱泉があるばかりでなく、家から歩いて行くには丁度頃合の距離にあったから。
中棚の附近には豊かな耕地も多い。ある崖の上まで行くと、傾斜の中腹に小ぢんまりとした校長の別荘がある。その下に温泉場の旗が見える。林檎畠《りんごばたけ》が見える。千曲川はその向を流れている。
午後の一時過に、私は田圃脇《たんぼわき》の道を通って、千曲川の岸へ出た。蘆《あし》、蓬《よもぎ》、それから短い楊《やなぎ》などの多い石の間で、長野から来ている師範校の学生と一緒に成《なっ》た。A、A、Wなどいう連中だ。この人達は夏休を応用して、本を読みに私の家へ通っている。岸には、熱い砂を踏んで水泳にやって来た少年も多かった。その中には私達の学校の生徒も混っていた。
暑くなってから、私はよく自分の生徒を連れて、ここへ泳ぎに来るが、隅田川《すみだがわ》なぞで泳いだことを思うと水瀬からして違う。青く澄んだ川の水は油のように流れていても、その瀬の激しいことと言ったら、眩暈《めまい》がする位だ。川上の方を見ると、暗い岩蔭から白波を揚げて流れて来る。川下の方は又、矢のように早い。それが五里淵《ごりぶち》の赤い崖に突き当って、非常な勢で落ちて行く。どうして、この水瀬が是処《こっち》の岩から向うの崖下まで真直《まっすぐ》に突切れるものではない。それに澄んだ水の中には、大きな岩の隠れたのがある。下手をマゴつけば押流されて了《しま》う。だから余程|上《かみ》の方からでも泳いで行かなければ、目的とする岩に取付いて上ることが出来ない。
平野を流れる利根《とね》などと違い、この川の中心は岸のどちらかに激しく傾いている。私達は、この河底の露《あらわ》れた方に居て、溝萩《みぞはぎ》の花などの咲いた岩の蔭で、二時間ばかりを過した。熱い砂の上には這《は》いのめって、甲羅《こうら》を乾しているものもあった。ザンブと水の中へ飛込むものもあった。このあたりへは小娘まで遊びに来て、腕まくりをしたり、尻を端折《はしょ》ったりして、足を水に浸しながら余念なく遊び廻っていた。
三つの麦藁《むぎわら》帽子が石の間にあらわれた。師範校の連中だ。
「ちったア釣れましたかネ」と私が聞いた。
「ええ、すっかり釣られて了いました」
「どうだネ、君の方は」
「五|尾《ひき》ばかし掛るには掛りましたが、皆な欺《だま》されて了いました」
「む、む、二時間もあるのだから、ゆっくり言訳は考えられるサ……」
こんなことを言って、仲間の話を混返《まぜかえ》すものもあった。
この連中と一緒に、私は中棚の温泉の方へ戻って行った。沸し湯ではあるが、鉱泉に身を浸して、浴槽《よくそう》の中から外部《そと》の景色を眺《なが》めるのも心地《こころもち》が好かった。湯から上っても、皆の楽みは茶でも飲みながら、書生らしい雑談に耽《ふけ》ることであった。林檎畠、葡萄棚《ぶどうだな》なぞを渡って来る涼しい風は、私達の興を助けた。
「年をとれば、甘い物なんか食いたくなくなりましょうか」
と一人が言出したのが始まりで、食慾の話がそれからそれと引出された。
「十八史略を売って菓子屋の払いをしたことも有るからナア」
「菓子もいいが、随分かかるネ」
「僕は二年ばかり辛抱した……」
「それはエラい。二年の辛抱は出来ない。僕なぞは一週間に三度と定《き》めている」
「ところが、君、三年目となると、どうしても辛抱が出来なくなったサ」
「此頃《こないだ》、ある先生が――諸君は菓子屋へよく行そうだ、私はこれまでそういう処へ一切足を入れなかったが、一つ諸君連れてってくれ給え、こう言うじゃないか」
「フウン」
「一体諸君はよく菓子を好かれるが、一回に凡《およ》そどの位食べるんですか、と先生が言うから、そうです、まあ十銭から二十銭位食いますって言うと、それはエラい、そんなに食ってよく胃を害《こわ》さないものだと言われる。ええ、学校へ帰って来て、夕飯を食わずにいるものも有ります、とやったさ」
「そうだがねえ、いろいろなのが有るぜ、菓子に胃散をつけて食う男があるよ」
三人は何を言っても気が晴れるという風だ。中には、手を叩《たた》いて、踊り上って笑うものもあった。そ
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