たが、造酒《つくりざけ》は金を寝かして商法に働きの少いのを見て取り、それから茶商に転じたという。時間の正しい人で、すこしでも掛値[#「掛値」は底本では「掛直」]《かけね》すれば、ずんずん帰って行くという風であったとか。幾人かの子に店を出させ、存命中はキチンキチンと屋賃を取り、死に際《ぎわ》にその店々を分けてくれて行った。一度でも茂十郎さんの家へ足踏したもののためには、死後に形見が用意してあったと言って驚いて、他《ひと》に話した女があったということも聞いた。私達の学校の校長に逢うと、よく故人の話が出て、客に呼ばれて行って一座した時でも無駄には酒を飲まなかったと言って徳利を控えた手付までして聞かせる。
「酒は飲むだけ飲めば、それで可いものです」
万事に茂十郎さんはこういう調子の人だったと聞いた。
小作人の家
学校の小使の家を訪ねる約束をした。辰さんは年貢《ねんぐ》を納める日だから私に来て見ろと言ってくれた。
小諸新町の坂を下りると、浅い谷がある。細い流を隔てて水車小屋と対したのが、辰さんの家だ。庭には蓆《むしろ》を敷きつめ、籾《もみ》を山のように積んで、辰さん兄弟がしきりと働いていた。
かねて懇意な隠居に伴われて私は暗い小作人の家へ入った。猫の入物《いれもの》とかで、藁《わら》で造った行火《あんか》のようなものが置いてある。私には珍らしかった。しるしばかりに持って行った手土産を隠居は床の間の神棚の前に供え、鈴を振り鳴らし、それから炬燵《こたつ》にあたりながら種々な話を始めた。極く無愛想な無口な五十ばかりの痩《や》せた女も黙って炬燵にあたっていた。その側には辰さんの小娘も余念なく遊んでいた。この無口な女と、竈《かまど》の前に蹲踞《うずくま》っている細帯|〆《しめ》た娘とは隠居の家に同居する人らしかった。で、私はこれらの人に関わず隠居の話に耳を傾けた。
話好きな面白い隠居は上州と信州の農夫の比較なぞから、種々な農具のことや地主と小作人の関係なぞを私に語り聞かせた。この隠居の話で、私は新町辺の小作人の間に小さな同盟|罷工《ひこう》ともいうべきが時々持ち上ることを知った。隠居に言わせると、何故小作人が地主に対して不服があるかというに、一体にこの辺では百坪を一升|蒔《まき》と称《とな》え、一ツカを三百坪に算し、一升の籾は二百八十目に量って取立てる、一ツカと言っても実際三百坪は無い、三百坪なくて取立てるのはその割で取る、地主と半々に分けるところは異数な位だ。そこで小作人の苦情が起る。無智な小作人がまた地主に対する態度は、種々なところで人の知らない復讐《ふくしゅう》をする。仮令《たとえ》ば俵の中へ石を入れて目方を重くし、俵へ霧を吹いて目をつけ、又は稲の穂を顧みないで藁を大事にし、その他種々な悪戯《いたずら》をして地主を苦める。こんなことをしたところで、結局「三月四月は食いじまい」だ。尤も、そのうちには麦も取れる。
「しかし私の時には定屋《じょうや》様(地主)がお出《いで》なさると、必《きっ》と一升買って、何がなくとも香の物で一杯上げるという風でした。今年は悴《せがれ》に任しときましたから、彼奴《あいつ》はまたどんな風にするか……私の時には昔からそうでした」
こう隠居は私に話して笑った。
そのうちに家の外では「定屋さんになア、来て御くんなんしょって、早く行って来てくれや」という辰さんの声がする。日の光は急に戸口より射し入り、暗い南の明窓《あかりまど》も明るくなった。「ああ、日が射して来た、先刻《さっき》までは雪模様でしたが、こりゃ好い塩梅《あんばい》だ」と復た辰さんが言っていた。
細帯締た娘は茶を入れて私達の方へ持って来てくれた。炬燵にあたっていた無口な女は、ぷいと台所の方へ行った。
隠居は小声に成って、
「私も唯《たった》一人ですし、平常《ふだん》は誰も訪ねて来るものが無いんです。年寄ですからねえ……ですから置いてくれというので、ああいうものを引受けて同居さしたところが忰が不服で黙ってあんなものを入れたって言いますのさ」
「飯なぞは炊《た》いてくれるんですか」と私が聞いた。
「それですよ、世間の人はそう思う。ところが私は炊いて貰わない。どうしてそんな事をしようものなら皆な食われて了う……そこは私もなかなか狡《こす》いや。だけれども世間の人はそう言わない。そこがねえ辛《つら》いと言うもんです」
古い洋傘《こうもり》の毛繻子《けじゅす》の今は炬燵掛と化けたのを叩いて、隠居は掻口説《かきくど》いた。この人の老後の楽みは、三世相《さんぜそう》に基づいて、隣近所の農夫等が吉凶を卜《うらな》うことであった。六三の呪禁《まじない》と言って、身体の痛みを癒《なお》す祈祷《きとう》なぞもする。近所での物識《ものしり》と言われてい
前へ
次へ
全48ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング