寺院のあることや、そういう旧態の保存されているところは一寸|上方《かみがた》へでも行ったような気のする事を君に言って置いた。この古めかしい空気は、激しく変り行く「時」の潮流の中で、何時まで突き壊《くず》されずに続くものだろうか。とにかく、長い冬季を雪の中に過すような気候や地勢と相待って、一般の人の心に宗教的なところのあるのは事実のようだ。これは千曲川の下流に行って特にそう感ぜられる。
長野では、私も善光寺の大きな建物と、あの内で行われるドラマチックな儀式とを見たばかりだし、それに眺望《ちょうぼう》の好い往生寺の境内を歩いて見た位のもので、実際どういう人があるのか、精《くわ》しくは知らない。飯山の方では私は何となく高い心を持った一人の老僧に逢ってみた。連添う老婦人もなかなかのエラ者だ。この人達は古い大きな寺院を経営し、年をとっても猶《なお》活動を忘れないでいるという風だ。その寺では、丁度|檀家《だんか》に法事があるとやらで、御画像《おえぞう》というものを箱に入れ鄭重《ていちょう》な風呂敷包にして借りて行く男なぞを見かけた。一寸したことだが、古風に感じた。
君は印度《インド》に於ける仏蹟《ぶっせき》探検の事実を聞いたことがあるか。その運動に参加した僧侶の一人は、この老僧の子息《むすこ》さんで、娘の婿にあたる学士も矢張一行の中に加わった人だ。学士は当時英国留学中であったが、病弱な体躯《たいく》を提《ひっさ》げて一行に加わり、印度内地及び錫蘭《セイロン》に於ける阿育王《あいくおう》の遺跡なぞを探り、更に英国の方へ引返して行く途中で客死した。この学士の記念の絵葉書が、沢山飯山の寺に遺《のこ》っていたが、熱帯地方の旅の苦みを書きつけてあったのなぞは殊《こと》に、私の心を引いた。老僧の子息さんは兵役に服しているとかで、その人には私は逢ってみなかった。旧《ふる》い朽ちかかったような寺院の空気の中から、とにかくこういう新人物が生れている。そしてそういう人達の背後には、親であり又た舅《しゅうと》姑《しゅうとめ》である老僧夫婦のような人達があって、幾十年となく宗教的な生活を送って来たことが想像される。
しかし飯山地方に古めかしい宗教的の臭気《におい》が残っていて、二十何ヵ所の寺院が仮令《たとえ》維持の方法に苦みながらも旧態を保存しているということは、偶然でない。私はその老僧から、飯山の古い城主の中には若くて政治的生涯を離れ、僧侶の服を纏い、一生仏教の伝道に身を委《ゆだ》ねた人のあったことを聞いた。又、白隠《はくいん》、恵端《えたん》、その他すぐれた宗教家がそこに深い歴史的の因縁を遺していることも聞いた。
こういうことは高原の地方にはあまり無いことだ。第一そういう土地柄で無いし、そういう歴史の背景も無いし法《のり》の残燈を高く掲げているような老僧のような人も見当らない。私は小諸辺で幾人かの僧侶に逢ってみたが、実際社会の人達に逢っていると殆んど変りが無いように思った。養蚕時が来れば、寺の本堂の側《わき》に蚕の棚《たな》が釣られる。僧侶も労働して、長い冬籠《ふゆごもり》の貯えを造らなければ成らない。
山に住む人々の二
学問の普及ということはこの国の誇りとするものの一つだ。多くの児童を収容する大校舎の建築物《たてもの》をこうした山間に望む景色は、一寸他の地方に見られない。そういう建物は何かの折に公会堂の役に立てられる。小諸でも町費の大部分を傾けて、他の町に劣らない程の大校舎を建築した。その高い玻璃窓《ガラスまど》は町の額のところに光って見える。
こういう土地だから、良い教育家に成ろうと思う青年の多いのも不思議は無い。種々《さまざま》な家の事情からして遠く行かれないような学問好きな青年は、多く国に居て身を立てることを考える。毎年長野の師範学校で募集する生徒の数に比べて、それに応じようとする青年の数は可なり多い。私達の学校にも、その準備の為に一二年在学する生徒がよくある。
一体にこの山国では学者を尊重する気風がある。小学校の教師でも、他の地方に比べると、比較的好い報酬を受けている。又、社会上の位置から言っても割合に尊敬を払われている。その点は都会の教育家などの比でない。新聞記者までも「先生」として立てられる。長野あたりから新聞記者を聘《へい》して講演を聴くなぞはここらでは珍しくない。何か一芸に長じたものと見れば、そういう人から新智識を吸集しようとする。小諸辺のことで言ってみても、名士先生を歓迎する会は実に多い。あだかも昔の御関所のように、そういう人達の素通りを許さないという形だ。
御蔭で私もここへ来てから種々《いろいろ》な先生方の話を拝聴することが出来た。故福沢諭吉氏も一度ここを通られて、何か土産話を置いて行かれたとか。その事は私
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