ろ》い土のあらわれた場所もある。その赤土の大波の上は枯々な桑畠で、ウネなりに白い雪が積って、日光の輝きを受けていた。その大波を越えて、蓼科の山脈が望まれ、遙《はる》かに日本アルプスの遠い山々も見えた。その日は私は千曲川の凄《すさ》まじい音を立てて流れるのをも聞いた。
 こんな風にして、溶けたと思う雪が復た積り、顕れた道路の土は復た隠れ、十二月に入って曇った空が続いて、日の光も次第に遠く薄く射すように成れば、周囲《あたり》は半ば凍りつめた世界である。高い山々は雪嵐に包まれて、全体の姿を顕す日も稀《まれ》だ。小諸の停車場に架けた筧《かけひ》からは水が溢《あふ》れて、それが太い氷の柱のように成る。小諸は降らない日でも、越後の方から上って来る汽車の屋根の白いのを見ると、ア彼方《むこう》は降ってるナと思うこともある。冬至近くに成れば、雲ともつかぬ水蒸気の群が細線の集合の如く寒い空に懸り、その蕭条《しょうじょう》とした趣は日没などに殊に私の心を引く。その頃には、軒の氷柱《つらら》も次第に長くなって、尺余に及ぶのもある。草葺《くさぶき》の屋根を伝う濁った雫が凍るのだから、茶色の長い剣を見るようだ。積りに積る庭の雪は、やがて縁側より高い。その間から顔を出す石南木《しゃくなぎ》なぞを見ると、葉は寒そうにべたりと垂れ、強い蕾《つぼみ》だけは大きく堅く附着《くっつ》いている。冬籠りする土の中の虫同様に、寒気の強い晩なぞは、私達の身体も縮こまって了う……
 こういう寒さと、凍った空気とを衝《つ》いて、私は未知の人々に逢う楽みを想像しながら、クリスマスのあるという日の暮方に長野へ入った。例の測候所の技手の家を訪ねると、主人はまだ若い人で、炬燵《こたつ》にあたりながらの気象学の話や、文学上の精《くわ》しい引証談なぞが、私の心を楽ませた。ラスキンが「近代画家」の中にある雲の研究の話なども出た。ラスキンが雲を三層に分けた頃から思うと、九層の分類にまで及んだ近時の雲形の研究は進んだものだ。こう主人が話しているところへ、ある婦人の客も訪ねて来た。
 私が主人から紹介されたその若い婦人は、牧師の夫人で、主人が親しい友達であるという。快活な声で笑う人だった。その晩歌うクリスマスの唱歌で、その主人の手に成ったものも有るとのことだった。やがて降誕祭《クリスマス》を祝う時刻も近づいたので、私達は連立って技手の家を出た。
 私が案内されて行った会堂風の建物は、丁度坂に成った町の中途にあった。そこへ行くまでに私は雪の残った暗い町々を通った。時々私は技手と一緒に、凍った往来に足を留めて、後部《うしろ》の方に起る女連《おんなれん》の笑声を聞くこともあった。その高い楽しい笑声が、寒い冬の空気に響いた時は、一層雪国の祭の夜らしい思をさせた。後に成って私は、若い牧師夫人が二度ほど滑《すべ》って転《ころ》んだことを知った。
 赤々とした燈火は会堂の窓を泄《も》れていた。そこに集っていた多勢の子供と共に、私は田舎《いなか》らしいクリスマスの晩を送った。

     長野測候所

 翌朝、私は親切な技手に伴われて、長野測候所のある岡の上に登った。
 途次《みちみち》技手は私を顧みて、ある小説の中に、榛名《はるな》の朝の飛雲の赤色なるを記したところが有ったと記憶するが、飛雲は低い処を行くのだから、赤くなるということは奈何《いかが》などと話した。さすが専門家だけあって話すことがすべて精《くわ》しかった。
 測候所は建物としては小さいが、眺望《ちょうぼう》の好い位置にある。そこは東京の気象台へ宛てて日毎の報告を造る場所に過ぎないと言うけれども、万般の設備は始めての私にはめずらしく思われた。雲形や気温の表を製作しつつ日を送る人々の生活なぞも、私の心を引いた。
 やがて私は技手の後に随いて、狭い楼階《はしごだん》を昇り、観測台の上へ出た。朝の長野の町の一部がそこから見渡される。向うに連なる山の裾には、冬らしい靄《もや》が立ち罩《こ》めて、その間の空虚なところだけ後景が明かに透けて見えた。
 風力を測る器械の側で、技手は私に、暴風雨《あらし》の前の雲――例《たと》えば広濶《こうかつ》な海岸の地方で望まれるようなは、その全形をこの信濃《しなの》の地方で望み難いことを話してくれた。その理由としては、山が高くて、気圧の衝突から雲はちぎれちぎれに成るという説明をも加えてくれた。
「雲の多いのは冬ですが、しかし単調ですね。変化の多いと言ったら、矢張夏でしょう。夏は――雲の量に於いては――冬の次でしょうかナ。雲の妙味から言えば、私は春から夏へかけてだろうと思いますが……」
 こう技手は言って、それから私達の頭の上に群り集る幾層かの雲を眺めていたが、思い付いたように、
「あの雲は何と御覧ですか」
 と私に指して尋ねた
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