った。そこにある測候所を見たいと思ったのがこの小さな旅の目的の一つであった。私はそれも果した。
 雪国のクリスマス――雪国の測候所――と言っただけでも、すでに何物《なに》か君の想像を動かすものがあるであろう。しかし私はその話を君にする前に、いかにこの国が野も山も雪のために埋もれて行ったかを話したいと思う。
 毎年十一月の二十日前後には初雪を見る。ある朝私は小諸の住居《すまい》で眼が覚めると、思いがけない大雪が来ていた。塩のように細かい雪の降り積《つもる》のが、こういう土地の特色だ。あまりに周囲《あたり》の光景が白々としていた為か、私の眼にはいくらか青みを帯びて見える位だった。朝通いの人達が、下駄の歯につく雪になやみながら往来を辿《たど》るさまは、あたかも暗夜を行く人に異ならない。赤い毛布《ケット》で頭を包んだ草鞋穿《わらじばき》の小学生徒の群、町家の軒下にションボリと佇立《たたず》む鶏、それから停車場のほとりに貨物を満載した車の上にまで雪の積ったさまなぞを見ると、降った、降った、とそう思う。私は懐古園《かいこえん》の松に掛った雪が、時々|崩《くず》れ落ちる度《たび》に、濛々《もうもう》とした白い烟《けむり》を揚げるのを見た。谷底にある竹の林が皆な草のように臥《ね》て了ったのをも見た。
 岩村田通いの馬車がこの雪の中を出る。馬丁の吹き鳴らす喇叭《らっぱ》の音が起る。薄い蓙《ござ》を掛けた馬の身《からだ》はビッショリと濡《ぬれ》て、粗《あら》く乱れた鬣《たてがみ》からは雫《しずく》が滴《したた》る。ザクザクと音のする雪の路を、馬車の輪が滑《すべ》り始める。白く降り埋《うず》んだ道路の中には、人の往来《ゆきき》の跡だけ一筋赤く土の色になって、うねうねと印したさまが眺《ながめ》られる。家ごとに出て雪をかく人達の混雑したさまも、こういう土地でなければ見られない光景《ありさま》だ。
 薄い靄か霧かが来て雪のあとの町々を立ち罩《こ》めた。その日の黄昏時《たそがれどき》のことだ。晴れたナと思いながら門口に出て見ると、ぱらぱらと冷いのが襟《えり》にかかる。ヤア降ってるのかと、思わず髪に触《さわ》ると、霧のように見えたのは矢張細かい雪だということが知れる。二度ばかり掻取《かきと》った路も、また薄白くなって、夜に入れば、時々家の外で下駄の雪の落す音が、ハタハタと聞える。自分の家へ客でも訪れるのかと思うと、それが往来の人々であるには驚かされる。
 雪明りで、暗いなかにも道は辿ることが出来る。町を通う人々の提灯《ちょうちん》の光が、夜の雪に映って、花やかに明るく見えるなぞもPicturesqueだ。
 君、私はこの国に於ける雪の第一日のあらましを君に語った。この雪が残らず溶けては了わないことを、君に思ってみて貰《もら》いたい。殊に寒い日蔭、庭だとか、北側の屋根だとかには、何時までも消え残って、降り積った上へと復た積るので、その雪の凍ったのが春までも持越すことを思ってみて貰いたい。
 しかし、これだけで未だ、私がこういう雪国に居るという感じを君に伝えるには、不充分だ。その雪の来た翌日になって見ると、屋根に残ったは一尺ほどで、軒先には細い氷柱《つらら》も垂下り、庭の林檎《りんご》も倒れ臥《ふ》していた。鶏の声まで遠く聞えて、何となくすべてが引被《ひきかぶ》せられたように成った。雪の翌日には、きまりで北の障子が明るくなる。灰色の空を通して日が照し始めると雪は光を含んでギラギラ輝く。見るもまぶしい。軒から垂れる雫の音は、日がな一日単調な、退屈な、侘《わび》しく静かな思をさせる。
 更に小諸町裏の田圃側《たんぼわき》へ出て見ると、浅々と萌《も》え出た麦などは皆な白く埋もれて、岡つづきの起き伏すさまは、さながら雪の波の押し寄せて来るようである。さすがに田と田を区別する低い石垣には、大小の石の面も顕われ、黄ばんだ草の葉の垂れたのが見られぬでもない。遠い森、枯々な梢、一帯の人家、すべて柔かに深い鉛色を帯びて見える。この鉛色――もしくはすこし紫色を帯びたのが、これからの色彩の基調かとも言いたい。朦朧《もうろう》として、いかにもおぼつかないような名状し難い世界の方へ、人の心を連れて行くような色調だ。
 翌々日に私はまた鶴沢という方の谷間《たにあい》へ出たことがあった。日光が恐しく烈しい勢で私に迫って来た。四面皆な雪の反射は殆《ほと》んど堪えられなかった。私は眼を開いてハッキリ物を見ることも出来なかった。まぶしいところは通り過《こ》して、私はほとほと痛いような日光の反射と熱とを感じた。そこはだらだらと次第下りに谷の方へ落ちている地勢で、高低の差別なく田畠もしくは桑畠に成っている。一段々々と刻んでは落ちている地層の側面は、焦茶色の枯草に掩《おお》われ、ところどころ赤黝《あかぐ
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