の雇われた男の方ははかばかしく仕事もしないという風で、すこし働いたかと思うと、直《すぐ》に鍬を杖にして、是方《こっち》を眺めてはボンヤリと立っていた。
岡辺は光の海であった。黒ずんだ土、不規則な石垣、枯々な桑の枝、畦の草、田の面に乾した新しい藁、それから遠くの方に見える森の梢《こずえ》まで、小春の光の充《み》ち溢《あふ》れていないところは無かった。
私の眼界にはよく働く男が二人までも入って来た。一人は近くにある田の中で、大きな鍬に力を入れて、土を起し始めた。今一人はいかにも背の高い、痩《や》せた、年若な農夫だ。高い石垣の上の方で、枯草の茶色に見えるところに半身を顕《あらわ》して、モミを打ち始めた。遠くて、その男の姿が隠れる時でも、上ったり下ったりする槌《つち》だけは見えた。そして、その槌の音が遠い砧《きぬた》の音のように聞えた。
午後の三時過まで、その日私は赤坂裏の田圃道を歩き廻った。
そのうちに、畠側《はたけわき》の柿や雑木に雀の群のかしましいほど鳴き騒いでいるところへ出た。刈取られた田の面には、最早青い麦の芽が二寸ほども延びていた。
急に私の背後《うしろ》から下駄の音がして来たかと思うと、ぱったり立止って、向うの石垣の上の方に向いて呼び掛ける子供の声がした。見ると、茶色に成った桑畠を隔てて、親子二人が収穫《とりいれ》を急いでいた。子供はお茶の入ったことを知らせに来たのだ。信州人ほど茶好な人達も少なかろうと思うが、その子供が復た馳出《かけだ》して行った後でも、親子は時を惜むという風で、母の方は稲穂をこき落すに余念なく、子息《むすこ》はその籾を叩《たた》く方に廻ってすこしも手を休めなかった。遠く離れてはいたが、手拭を冠った母の身《からだ》を延べつ縮めつするさまも、子息のシャツ一枚に成って後ろ向に働いているさまも、よく見えた。
子供にあんなことを言われると、私も咽喉《のど》が乾いて来た。
家へ帰って濃い熱い茶に有付きたいと思いながら、元来た道を引返そうとした。斜めに射して来た日光は黄を帯びて、何となく遠近《おちこち》の眺望《ながめ》が改まった。岡の向うの方には数十羽の雀が飛び集ったかと思うと、やがてまたパッと散り隠れた。
農夫の生活
君はどれ程私が農夫の生活に興味を持つかということに気付いたであろう。私の話の中には、幾度《いくたび》か農家
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