《あそこ》はまだ開墾したばかりで、ここほど林が深くなかった。
 別れを告げて尾の石を離れる前に、もう一度私達は番小屋の見える方を振返った。白樺《しらかんば》なぞの混った木立の中に、小屋へ通う細い坂道、岡の上の樹木、それから小屋の屋根なぞが見えた。
 白樺の幹は何処《どこ》の林にあっても眼につくやつだが、あの山桜を丸くしたような葉の中には最早《もう》美しく黄ばんだのも混っていた。
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   その六


     秋の修学旅行

 十月のはじめ、私は植物の教師T君と一緒に学生を引連れて、千曲川の上流を指して出掛けた。秋の日和《ひより》で楽しい旅を続けることが出来た。この修学旅行には、八つが岳の裾《すそ》から甲州へ下り、甲府へ出、それから諏訪《すわ》へ廻って、そこで私達を待受けていた理学士、水彩画家B君、その他の同僚とも一緒に成って、和田の方から小諸《こもろ》へ戻って来た。この旅には殆《ほと》んど一週間を費した。私達は蓼科《たでしな》、八つが岳の長い山脈について、あの周囲を大きく一廻りしたのだ。
 その中でも、千曲川の上流から野辺山《のべやま》が原へかけては一度私が遊びに行ったことのあるところだ。その時は近所の仕立屋の亭主と一緒だった。この旅で、私は以前の記憶を新しくした。その話を君にしようと思う。

     甲州街道

 小諸から岩村田町へ出ると、あれから南に続く甲州街道は割合に平坦な、広々とした谷を貫いている。黄ばんだ、秋らしい南佐久の領分が私達の眼前《めのまえ》に展《ひら》けて来る。千曲川はこの田畠の多い谷間《たにあい》を流れている。
 一体、犀川《さいかわ》に合するまでの千曲川は、殆《ほと》んど船の影を見ない。唯《ただ》、流れるままに任せてある。この一事だけで、君はあの川の性質と光景とを想像することが出来よう。
 私は、佐久、小県《ちいさがた》の高い傾斜から主に谷底の方に下瞰《みおろ》した千曲川をのみ君に語っていた。今、私達が歩いて行く地勢は、それと趣を異にした河域だ。臼田《うすだ》、野沢の町々を通って、私達は直ぐ河の流に近いところへ出た。
 馬流《まながし》というところまで岸に添うて遡《さかのぼ》ると河の勢も確かに一変して見える。その辺には、川上から押流されて来た恐しく大きな石が埋まっている。その間を流れる千曲川は大河というよりも寧《むし》ろ大き
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