ょうぶ》を立て廻して、人々は端近く座りながら涼んでいた。
 御輿は市町から新町の方へ移った。ある坂道のところで、雨のように降った賽銭《さいせん》を手探りに拾う女の児なぞが有った。後には、提灯を手にして往来を探《さが》すような青砥《あおと》の子孫も顕《あらわ》れるし、五十ばかりの女が闇から出て、石をさぐったり、土を掴《つか》んだりして見るのも有った。さかしい慾の世ということを思わせた。
 市町の橋は、学校の植物の教師の家に近い。私の懇意なT君という医者の家にも近い。その欄干《らんかん》の両側には黒い影が並んで、涼しい風を楽んでいるものや、人の顔を覗《のぞ》くものや、胴魔声《どうまごえ》に歌うものや、手を引かれて断り言う女連なぞが有った。
 夜の九時過に、馬場裏の提灯はまだ宵の口のように光った。組合の人達は仕立屋や質屋の前あたりに集って涼みがてら祭の噂《うわさ》をした。この夜は星の姿を見ることが出来なかった。螢《ほたる》は暗い流の方から迷って来て、町中《まちなか》を飛んで、青い美しい光を放った。

     後の祭

 翌日は朝から涼しい雨が降った。家の周囲《まわり》にある柿、李《すもも》なぞの緑葉からは雫《しずく》が滴《したた》った。李の葉の濡《ぬ》れたのは殊《こと》に涼しい。
 本町の通では前の日の混雑した光景《さま》と打って変って家毎に祭の提灯を深く吊《つる》してある。紺|暖簾《のれん》の下にさげた簾《すだれ》も静かだ。その奥で煙草盆の灰吹を叩《たた》く音が響いて聞える位だ。往来には、娘子供が傘をさして遊び歩くのみだ。前の日に用いた木の臼《うす》も町の片隅《かたすみ》に転してある。それが七月の雨に濡れている。
 この十四日には家々で強飯《こわめし》を蒸《ふか》し、煮染《にしめ》なぞを祝って遊び暮す日であるという。午後の四時頃に成っても、まだ空は晴れなかった。烏帽子《えぼし》を冠り、古風な太刀《たち》を帯びて、芝居の「暫《しばらく》」にでも出て来そうな男が、神官、祭事掛、子供などと一緒に、いずれも浅黄の直垂《ひたたれ》を着けて、小雨の降る町中の〆飾を切りに歩いた。
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   その四


     中棚《なかだな》

 私達の教員室の窓から浅い谷が見える。そこは耕されて、桑《くわ》などが植付けてある。
 こういう谷が松林の多い崖《がけ》を挟《はさ》んで、
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