たたずんで、何の物音とも知れない極く幽《かす》かな響に耳を立てたり、暗い奥の方を窺《うかが》うようにして眺《なが》め入ったりした。先に進んで行くW君の姿も薄暗く此方《こちら》を向いてもよく顔が分らない程の光を辿って、猶《なお》奥深く進んだ。すべての物は暗い夜の色に包まれた。それが靄の中に沈み入って、力のない月の光に、朦朧《もうろう》と影のように見えた。ある時は、芝の上に腰掛けて、肩に掛けた物を卸し、足を投出して、しばらく休んで行った。私は既に非常な疲労を覚えた。というは、腹具合が悪くて、飯を一度食わなかったから。で、W君と一緒に休む時には、そこへ倒れるように身を投げた。やがて復た洋傘《こうもり》に力を入れて、起《た》ち上った。
いくつか松林を越えて、広々としたところへ出た。私達二人の影は地に映って見えた。月の光は明るくなったり暗くなったりした。そのうちに私達は大きな黒いものを見つけた。七ひろ石だ。
「もう余程来ましたかねえ。どうも非常に疲れた。足が前《さき》へ出なくなった」
「私も夜道はしましたが、こんなに弱ったことはありません」
「ここで一つ休もうじゃありませんか」
「弱いナア。ああああ」
こう言合って、勇気を鼓して進もうとすると、疲れた足の指先は石に蹉《つまず》いて痛い。復たぐったりと倒れるように、草の上へ横に成って休んだ。そこは浅間の中腹にある大傾斜のところで、あたりは茫漠《ぼうばく》とした荒れた原のように見えた。越えて来た松林は暗い雲のようで、ところどころに黒い影のような大石が夜色に包まれて眼に入るばかりだ。月の光も薄くこの山の端《は》に満ちた。空の彼方《かなた》には青い星の光が三つばかり冴えて見えた。灰白い夜の雲も望まれた。
深山の燈影
赤々と障子に映る燈火《ともしび》を見た時の私達の喜びは譬《たと》えようもなかった。私達は漸《ようや》くのことで清水《しみず》の山小屋に辿り着いた。
小屋の番人はまだ月明りの中で何か取片付けて働いている様子であった。私達は小屋へ入って、疲れた足を洗い、脚絆《きゃはん》のままで炉辺《ろばた》に寛《くつろ》いだ。W君は毛布を身に纏《まと》いながら、
「本家の小母さんが、お竹さんにどうか明日《あす》は大根洗いに降りて来て下さいッて――それにKさんの結納《ゆいのう》が来ましたから、小母さんも見せたいからッて。そ
前へ
次へ
全95ページ中52ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング