刺繍
島崎藤村

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)独《ひと》り

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)散々|種々《いろいろ》なことを
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 ふと大塚さんは眼が覚めた。
 やがて夜が明ける頃だ。部屋に横たわりながら、聞くと、雨戸へ来る雨の音がする。いかにも春先の根岸辺の空を通り過ぎるような雨だ。その音で、大塚さんは起されたのだ。寝床の上で独《ひと》り耳を澄まして、彼は柔かな雨の音に聞き入った。長いこと、蒲団《ふとん》や掻巻《かいまき》にくるまって曲《かが》んでいた彼の年老いた身体が、復《ま》た延び延びして来た。寝心地の好い時だ。手も、足も、だるかった。彼は臥床《ねどこ》の上へ投出した足を更に投出したかった。土の中に籠《こも》っていた虫と同じように、彼の生命《いのち》は復た眠から匍出《はいだ》した。
 大塚さんは五十を越していた。しかしこれから若く成って行くのか、それとも老境に向っているのか、その差別のつかないような人で、気象の壮《さか》んなことは壮年《わかもの》に劣らなかった。頼りになる子も無く、財産を分けて遣《や》る楽みも無く、こんな風に
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