萎《しお》れ返っていたものだ。
大塚さんはマルを膝の上に乗せて、抱締るようにして顔を寄せた。白い、柔な狆の毛は、あだかもおせんの頬に触れる思をさせた。
別れるのは反《かえ》ってお互の為だ、そんなことをおせんに言い聞かせて、生家《さと》の方へ帰してやった。大塚さんはそれも考えて見た。
別れて何か為に成ったろうか。決してそうで無かった。後に成って、反って大塚さんは眼に見えない若い二人の交換《とりかわ》す言葉や、手紙や、それから逢曳《あいびき》する光景《さま》までもありありと想像した。それを思うと仕事も碌々手に着かないで、ある時は二人の在処《ありか》を突留めようと思ったり、ある時は自分の年甲斐《としがい》も無いことを笑ったり、ある時は美しく節操《みさお》の無い女の心を卑しんだりして、それ見たかと言わないばかりの親戚友人の嘲《あざけり》の中に坐って、淋しい日を送ったことが多かった。彼女が後へ残して行った長い長い悲哀《かなしみ》は、唯さえ白く成って来た大塚さんの髪を余計に白くした。
おせんがある医者のところへ嫁《かたづ》いたという噂は、何か重荷でも卸したように、大塚さんの心を離れさせた。曽《かつ》て彼の妻であった人も、今は最早全く他人のものだ。それを彼は実際に見て来たのだ。
万事大塚さんには惜しく成って来た。女というものの考え方からして変って来るように成った。男性《おとこ》の心情なぞはそう理解されなくとも可《い》い、仕事の手伝いなぞはどうでも可い、と成って来た。働き者だとか、気性|勝《まさ》りだとか言われて、男と戦おうとばかりするような毅然《しゃんと》した女よりも、反って涙脆い、柔軟《やわらか》な感じのする人の方が好ましい。快活であれば猶《なお》好い。移り気も一概には退けられない。不義する位のものは、何処かに人の心を引く可懐《なつかし》みもある。ああいうおせんのような女をよく面倒見て、気長に注意を怠らないようにしてやれば、年をとるに随って、存外好い主婦と成ったかも知れない。多情も熟すれば美しい。
人間の価値《ねうち》はまるで転倒して了った。彼はおせんと別れるより外に仕方が無かったことを哀《かな》しく思った。何故初めからもっと大切にすることは出来なかったろうと思って見た。
マルの毛を撫でながら、こんな考えに沈んでいるところへ、律義顔《りちぎがお》な婆さんが勝手の方から廊下を廻ってやって来た。
大塚さんの親戚からと言って、春らしい到来物が着いた。青々とした笹《ささ》の葉の上には、まだ生きているような鰈《かれい》が幾尾《いくひき》かあった。それを見せに来た。婆さんは大きな皿を手に持ったまま、大塚さんの顔を眺《なが》めて、
「旦那様は御塩焼の方が宜《よろ》しゅう御座いますか。只今は誠に御魚の少い時ですから、この鰈はめずらしゅう御座いますよ。鰹《かつお》に鰆《さわら》なぞはまだ出たばかりで御座いますよ」
こう言って主人の悦ぶ容子《ようす》を見ようとした。
何かおせんの着物で残っているものはないか。こう大塚さんは何気なく婆さんに尋ねた。
婆さんは不思議そうに、
「奥様の御召物で御座いますか。何一つ御残し遊ばした物は御座いません。何から何まで御生家《おさと》の方へ御送りしたんですもの……何物《なんに》も置かない方が好いなんと仰《おっしゃ》って……そりゃ、旦那様、御寝衣《おねまき》まで後で私が御洗濯しまして、御蒲団やなんかと一緒に御送りいたしました」
と答えたが、やがて独語《ひとりごと》でも言うように、
「旦那様は今日はどう遊ばしたんですか……奥様の御召物が残っていないかなんて、ついぞそんなことを御尋ねに成ったことも無いのに……」
こう言って見て、手に持った魚の皿を勝手の方へ運んで行った。
庭で鳴く小鳥の声までも、大塚さんの耳には、復た回《めぐ》って来た春を私語《ささや》いた。あらゆる記憶が若草のように蘇生《いきかえ》る時だ。楽しい身体の熱は、妙に別れた妻を恋しく思わせた。
夕飯の頃には、針仕事に通って来ている婦《おんな》も帰って行った。書生は電話口でしきりとガチャガチャ音をさせていた。電燈の点《つ》いた食堂で、大塚さんは例の食卓に対って、おせんと一緒に食った時のことを思出した。燈火《あかり》に映った彼女の頬を思い出した。殊に湯上りの時なぞはその頬を紅くして笑って見せたことを思出した。
「御塩焼は奈何《いかが》で御座いますか。もし何でしたら、海胆《うに》でも御着け遊ばしたら――」
と言って婆さんは勝手の方から来た。婆さんの孫娘がかしこまって給仕する側には、マルも居て、主人の食う方を眺めたが、時々物欲しそうな声を出したり、拝むような真似《まね》をしたりした。
音沙汰《おとさた》の無い、どうしているか解らないような子息《
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