方から廊下を廻ってやって来た。
 大塚さんの親戚からと言って、春らしい到来物が着いた。青々とした笹《ささ》の葉の上には、まだ生きているような鰈《かれい》が幾尾《いくひき》かあった。それを見せに来た。婆さんは大きな皿を手に持ったまま、大塚さんの顔を眺《なが》めて、
「旦那様は御塩焼の方が宜《よろ》しゅう御座いますか。只今は誠に御魚の少い時ですから、この鰈はめずらしゅう御座いますよ。鰹《かつお》に鰆《さわら》なぞはまだ出たばかりで御座いますよ」
 こう言って主人の悦ぶ容子《ようす》を見ようとした。
 何かおせんの着物で残っているものはないか。こう大塚さんは何気なく婆さんに尋ねた。
 婆さんは不思議そうに、
「奥様の御召物で御座いますか。何一つ御残し遊ばした物は御座いません。何から何まで御生家《おさと》の方へ御送りしたんですもの……何物《なんに》も置かない方が好いなんと仰《おっしゃ》って……そりゃ、旦那様、御寝衣《おねまき》まで後で私が御洗濯しまして、御蒲団やなんかと一緒に御送りいたしました」
 と答えたが、やがて独語《ひとりごと》でも言うように、
「旦那様は今日はどう遊ばしたんですか……奥様の御召物が残っていないかなんて、ついぞそんなことを御尋ねに成ったことも無いのに……」
 こう言って見て、手に持った魚の皿を勝手の方へ運んで行った。
 庭で鳴く小鳥の声までも、大塚さんの耳には、復た回《めぐ》って来た春を私語《ささや》いた。あらゆる記憶が若草のように蘇生《いきかえ》る時だ。楽しい身体の熱は、妙に別れた妻を恋しく思わせた。
 夕飯の頃には、針仕事に通って来ている婦《おんな》も帰って行った。書生は電話口でしきりとガチャガチャ音をさせていた。電燈の点《つ》いた食堂で、大塚さんは例の食卓に対って、おせんと一緒に食った時のことを思出した。燈火《あかり》に映った彼女の頬を思い出した。殊に湯上りの時なぞはその頬を紅くして笑って見せたことを思出した。
「御塩焼は奈何《いかが》で御座いますか。もし何でしたら、海胆《うに》でも御着け遊ばしたら――」
 と言って婆さんは勝手の方から来た。婆さんの孫娘がかしこまって給仕する側には、マルも居て、主人の食う方を眺めたが、時々物欲しそうな声を出したり、拝むような真似《まね》をしたりした。
 音沙汰《おとさた》の無い、どうしているか解らないような子息《
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