萎《しお》れ返っていたものだ。
 大塚さんはマルを膝の上に乗せて、抱締るようにして顔を寄せた。白い、柔な狆の毛は、あだかもおせんの頬に触れる思をさせた。

 別れるのは反《かえ》ってお互の為だ、そんなことをおせんに言い聞かせて、生家《さと》の方へ帰してやった。大塚さんはそれも考えて見た。
 別れて何か為に成ったろうか。決してそうで無かった。後に成って、反って大塚さんは眼に見えない若い二人の交換《とりかわ》す言葉や、手紙や、それから逢曳《あいびき》する光景《さま》までもありありと想像した。それを思うと仕事も碌々手に着かないで、ある時は二人の在処《ありか》を突留めようと思ったり、ある時は自分の年甲斐《としがい》も無いことを笑ったり、ある時は美しく節操《みさお》の無い女の心を卑しんだりして、それ見たかと言わないばかりの親戚友人の嘲《あざけり》の中に坐って、淋しい日を送ったことが多かった。彼女が後へ残して行った長い長い悲哀《かなしみ》は、唯さえ白く成って来た大塚さんの髪を余計に白くした。
 おせんがある医者のところへ嫁《かたづ》いたという噂は、何か重荷でも卸したように、大塚さんの心を離れさせた。曽《かつ》て彼の妻であった人も、今は最早全く他人のものだ。それを彼は実際に見て来たのだ。
 万事大塚さんには惜しく成って来た。女というものの考え方からして変って来るように成った。男性《おとこ》の心情なぞはそう理解されなくとも可《い》い、仕事の手伝いなぞはどうでも可い、と成って来た。働き者だとか、気性|勝《まさ》りだとか言われて、男と戦おうとばかりするような毅然《しゃんと》した女よりも、反って涙脆い、柔軟《やわらか》な感じのする人の方が好ましい。快活であれば猶《なお》好い。移り気も一概には退けられない。不義する位のものは、何処かに人の心を引く可懐《なつかし》みもある。ああいうおせんのような女をよく面倒見て、気長に注意を怠らないようにしてやれば、年をとるに随って、存外好い主婦と成ったかも知れない。多情も熟すれば美しい。
 人間の価値《ねうち》はまるで転倒して了った。彼はおせんと別れるより外に仕方が無かったことを哀《かな》しく思った。何故初めからもっと大切にすることは出来なかったろうと思って見た。
 マルの毛を撫でながら、こんな考えに沈んでいるところへ、律義顔《りちぎがお》な婆さんが勝手の
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