七 三朝《みさゝ》温泉

 鳥取の停車場を離れてから、また私は鷄二と二人ぎりの汽車の旅となつた。私達は今、山陰道の海岸に沿うて、傳説の多い地を旅しつゝある。その考へはひとりでに私の胸に浮んで來た。湖山《こやま》の池も近いと聞くと、私は鳥取の方で聞いて來た湖山の長者の傳説を自分の胸にくり返して見て、おとぎ話の世界にでも心を誘はれるやうな思ひをした。その傳説によると、長者は廣い土地を所有し、多くの人を使つて、一日のうちに自分の所有する田地の植付を濟まさうとしたほどの人である。長者は又、手に持つ扇をひろげ、西の空に沈みかけた太陽をさし招いて、その日のうちにすつかり苗を植付けてしまつたといふほどの人である。しかしこの自然を無視したやうな行ひは、それ相應なむくいを受けない譯にいかなかつた。長者の田は一夜のうちに青々とした湖水に變つてゐたといふのである。この傳説の世界が、眼に見る湖山の池であるのだから面白い。島二つほどある靜かな湖水だ。私達がそれを望んで通り過ぎようとしたころは、にはかな夕立が湖水の上へも來、汽車の窓の外へもきた。
 もつと古い傳説を、傳説といふよりも古い神話の殘つた地方を、松林
前へ 次へ
全110ページ中46ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング