みくすぶつた都會の樹木を笑へた義理でもない。漸くのことで、私も日頃の自然に遠い生活から離れて來て、思ふさま七月の生氣を呼吸することの出來るやうな旅に身を置き得た心地もした。
 何を見、何を拾はうとして、私は鷄二と一緒にこの山陰行の旅に上つて來たのであるか。はじめて見る山陰道、關東を見た眼で見比べたらばと思ふ關西の地方、その未知の國々がこれからゆく先に私達を待つてゐた。しかし、そんなに深く入つて見るつもりで、私はこの旅に上つて來たものではない。むしろ多くの旅人と同じやうに、淺く浮びあがることを樂しみにして、東京の家を出て來たものである。その意味からいつても、重なり重なる山岳の輪廓を車窓の外に望みながら、篠山《さゝやま》まで來た、丹波大山まで來た、とゆく先の停車場で驛々の名を讀み、更に次の驛まで何マイルと記してあるのを知り、時に修學旅行の途中かと見えるやうな日に燒けた女學生の群が、車窓に近くゆき過ぐるのを眺めることすら、私はそれを樂しみにした。
 更に山地深く進んだ。
「父さん柏原《かいばら》といふところへ來たよ」
「柏原と書いて、(かいばら)か。讀めないなあ。」
 私も鷄二も首をひねつた
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