あれば、お登りにならないわけにいかないでせう。」
 この人もなか/\勸め上手だ。數百階ある石段の横手には、別に山の上へ導く坂道もある。手に汗じみたハンケチを握りながら、松林の間を攀ぢ登つて行つて見ると、十一面の觀音を安置してあるといふ小さな庵の前へ出た。益田の町、吉田の村から、石見の平野の一部が、その高い位置から見渡された。長門富士なぞも西の方に望まれて、春先の雉子の鳴くころも、思ひやられるやうなところであつた。日本海々戰の當時には、この邊までさかんに砲聲の聞えたことを語り出すのは大谷君のお父さんだ。庵の後の方へ私達を連れて行つて、そこから領巾振山《ひれふるやま》を指して見せるのは息子さんの方だ。楊桃《やまもゝ》といふ木の枝に實の生《な》つてゐるところも、私達がこの山の上へ來て初めて見たものである。それは「もつこく」を想ひ出させるやうな木ぶりで、小さな實は苺より赤黒い。四國あたりにはこの楊桃《やまもも》はめづらしくないともいふが、初めての私なぞには仙人でも食ふ木の實か何かのやうに思はれた。すくなくも十年の齡《よはひ》は延びる。そんなことを語り合ひながら、私達は庵の前に腰掛けてめづらしい木の實を味はつたり、またそこいらを歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて遠く山の間に續く白い街道を望んだりした。

 醫光寺から萬福寺までは、それほど離れてゐない。歩いても知れたほどだ。青い麻畠の間の小道もめづらしく、樂しかつた。この邊には、麻、藺《ゐ》などの畑も多い。
 萬福寺に來て見ると、雪舟の[#「雪舟の」は底本では「雲舟の」]築いた庭がこゝにも古い寺院の奧に光つてゐた。硬質な岩の間に躑躅《つつじ》を配置して、その石山を中心とした庭の意匠は、醫光寺の方で見て來たものと大體に一致してゐる。こゝには池の片隅に燒石を置き、一方の青い楓の樹のかげに三つの石をおもしろく按配して、風致はかならずしも一樣ではない。いはば姉妹の庭である。
 書院も廣かつた。私達は思ひ/\にすゞしい風の來るところにゐて、年とつた住職が勸めてくれる茶をのみながら、この庭を眺めた。
 住職は、赤松、高野松などの太い幹の見える庭の一部を私達に指して見せていつた。
「向うの竹藪のあたりはいくらか變つてゐますが、その他は大體に昔のまゝです。私共は子供の時分からこの庭を見てゐます。」
「どうでせう。この庭の方が醫光寺よりも纏まつてゐるやうに見えますが――。」
 と大谷君はいひ添へたが、私にはどつちも好かつた。どつちの庭が姉で、どつちが妹であるとさへもいへなかつた。醫光寺を見た眼で萬福寺の庭を見ると、あの長く垂れさがつた古い櫻の枝のかはりに、こゝには岩の間から身を起した大きな蘇鐵がある。一方の庭に白く咲き殘つてゐた山梔《くちなし》のかはりに、こゝには腹這つてゐる磯馴《そなれ》の松がある。かすかに鯉の動くのが見えるほど薄濁りのした水のかはりに、こゝには青い蓮の葉で滿たされた池がある。どつしりとした古風な石燈籠が一つこの池の水に臨んで、その邊には圓く厚ぽつたい「つはぶき」も多く集めてあつた。前手の汀《みぎは》のところに見える藺《ゐ》、あやめなぞの感じもよい。仲のいゝ友達のやうな蓮の葉が物をいつてゐる側には、河骨《かうほね》も夢を見てゐた。
 その時になると、私もわざ/\この山陰の西まで旅して來た甲斐があつたと思つた。松江を終りとして東京の方へ引返したら、こんなところに昔の人の深い心の殘つてゐることも知らず、このよい庭も見落して行くところであつたと思つた。私は住職がそこへ取出して來た記念帖のはしに、僅かばかりの言葉を書きつけた。
「古大家の意匠になりし庭園を前にして、しばらく旅の時を送る。昭和二年、七月十九日記念。」
 かうして萬福寺を辭した。私達は寺の門前に近い新橋の畔に出て、そこの柳のかげに吉田行の自動車を待つた。益田川の河岸に藺草の並べて乾してあるのも眼についた。醫光寺境内の山の上から望んで來た領巾振山はその橋のほとりからも見えた。
 その時になると、又、私は日ごろの自分の考へ方を改めなければならないやうなものが、こゝにも一つあつたことを思つた。どうも雪舟の[#「雪舟の」は底本では「雲舟の」]藝術は親しみにくいと考へたやうな、その多年の疑問は、今度の旅で見事に覆へされた。やはり、來て見て動かされた。
 石見《いはみ》といふ名が示してゐるやうに、いはばこゝは石の國である。古い時代の岩石の崇拜は、この地方に限つたことでもなく、伊豆あたりの神社にもそれを見つけるといふが、益田にある天《あま》の石勝《いはかつ》神社といふやうな古祠そのものがすでに、この地方のことを語つてゐるやうにも見える。雪舟の藝術に感ずるやうな石の美は、東洋的ではあつても、必ずしもそれが支那的であるとはいひきれない
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