から、その晩は宿の二階で鷄二と一緒に夕飯の馳走になつた。座には、龜井君、田中君、大谷君なぞの外に、益田の農林學校、高等女學校に教鞭をとる人達、その他の顏も見えた。こゝで味はふ高津《たかつ》川の鮎もうまかつた。

 七月十九日の朝が來た。そろ/\私達の旅も、終に近かつた。朝飯の膳について見ると、味噌汁もうまい。聞いて見ると、その味噌は津和野《つわの》から來るといふ。日ごろの自分のすきなものからいふではないが、宿で出す汁椀の蓋を取つて、その香ひをかいで見たばかりでも、おほよそその土地を想像し得らるゝやうに思ふのが私の癖である。同じ山陰のうちとはいつても、これまで私達が旅して來た土地のことに思ひ比べると、こゝにはかなりの相違を見る。こゝは一つの獨立した地方のやうでもある。山口縣を通して入つて來る「西」の刺激は、つい隣にまで迫つて來てゐるやうにも見える。出雲の大社近くまで東から早く延びて來てゐた山陰線が、漸く數年前にこの邊の開通を見たといふことは、この地方の人達に取つてゆつくり身構へする時の餘裕を與へたらしい。一萬二千町歩にもわたる奧地の自然林に炭燒の煙の登るのを見、多量の製炭が架空索道によつてそこから運び出さるゝやうになつたのも、そんなに舊いことではないといふが、これなぞもその一例であらう。破壞にも、建設にも、鐵道がこの山陰の西にもたらしたものは、割合に靜かな地方の革命であつたらう。
 朝飯をすますと間もなく土地の人達が誘ひに來てくれた。私達は連立つて醫光寺の近くまで歩いた。
 商業地らしい益田の通りから寺の方へ折れ曲つて行くと、ある家の垣のところに濃い緑が眼についた。こゝにも夏蜜柑の樹があつた。私と一緒に並んで歩いて行つた大谷君はそれを私に指して見せたが、さういふ同君は日露戰爭當時の話を私に聞かせたばかりでなく、この地方へ逃げ込んで來た露艦の水夫のことを自分でも思ひ出したやうであつた。日本海の海戰はこゝから遠くない沖合で戰はれたのだ。二十人ばかりの露艦の乘組員が一隻のボートで着いた時は、誰も敗殘の兵士が救ひを求めに來たと思ふものはなく、敵が攻めて來たとばかり狼狽したものであつたといふ。この話は眼に見えるやうだ。それらのロシヤ人が上陸を許され、食物をあてがはれた時は、土地の人の與へた夏蜜柑に皮のまゝかじりついたともいふ。夏蜜柑にはこんな話が殘つてゐた。もつとも、その話をする大谷君は私なぞよりずつと年の若い人だ。日露戰爭當時の記憶は、話す人よりも反つて話される私の方に濃いとは思つたが。
「いゝもんやろ、醫光寺の門やろ。」
 この古い俚謠の殘つたところが、私達の指さして行つた寺の入口であつた。高くがつしりとした唐門の上には、額なぞも掛かつてゐて、雪舟の遺蹟にふさはしい。石段を上つたところにまた總門がある。ちやうど住職の留守の時で、私達は古い本堂の前手から庭づたひに僧坊の奧へ出た。苔蒸した築山と泉水との見えるところへ行つて立つた。
「これが雪舟の遺《のこ》した庭です。何かかう大きなものをつかんで、非常な力でそれを壓搾してあるやうに見えますが――」
 かうした大谷君の言葉を聞くにつけても、私は行く先で逢ふ山陰地方の人達が、それ/″\住慣れた土地にあるものをよく見てゐるのに感心した。こゝへ來て見ると、靜かに隱れてゐるやうな庭の眺めが一切を忘れさせた。石の美もよく捉へてある。縱の面と横の面との兩樣の配置は、省けるだけを省いたもののやうに見える。誰もこの庭から石一つ除き去ることは出來まい。誰もまた、この庭に石一つ附け加へることも出來まい。積み重ね/\したところに潛んでゐるものは、深い立體的な感じを伴ふ。これは心の庭だ。遠い中世紀は、まだこんなところに殘つて、私達の眼の前に息づいてゐるかのやうでもあつた。
 留守居する寺の人達が、茶なぞを勸めてくれるのもうれしくて、私達は住職の居間らしいところからもこの庭を眺めた。建物の内部も廣くて、古い十六羅漢の木像なぞを置き並べた部屋もあつた。
 思はず時を送つた。同行の人達に促されてこゝを辭しかけると、本堂の前あたりの庭のところへ來て、挨拶する人に逢つた。大谷君のお父さんだ。息子さんの方は、あるひは年よりも老けて見えるし、お父さんの方は、また若々しくて、そこへ並んだところはちよつと親子のやうに思はれないくらゐだつた。
 醫光山の上にある庵は慈善庵といつて、大谷君の祖父にあたる人の開基にかゝるといふ。こゝまで來たついでに、ぜひともその庵のあるところまで登れ、さういつて勸めてくれるのはお父さんだ。その時は龜井君とも醫光寺まで同道して來たが、同君が益田の驛長といふいそがしい職務の中で、いろ/\と私達を世話してくれるのはありがたかつた。龜井君は大谷君親子の言葉を引取つて、いかにもはつきりとした調子で、
「一生の願ひと
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