みくすぶつた都會の樹木を笑へた義理でもない。漸くのことで、私も日頃の自然に遠い生活から離れて來て、思ふさま七月の生氣を呼吸することの出來るやうな旅に身を置き得た心地もした。
 何を見、何を拾はうとして、私は鷄二と一緒にこの山陰行の旅に上つて來たのであるか。はじめて見る山陰道、關東を見た眼で見比べたらばと思ふ關西の地方、その未知の國々がこれからゆく先に私達を待つてゐた。しかし、そんなに深く入つて見るつもりで、私はこの旅に上つて來たものではない。むしろ多くの旅人と同じやうに、淺く浮びあがることを樂しみにして、東京の家を出て來たものである。その意味からいつても、重なり重なる山岳の輪廓を車窓の外に望みながら、篠山《さゝやま》まで來た、丹波大山まで來た、とゆく先の停車場で驛々の名を讀み、更に次の驛まで何マイルと記してあるのを知り、時に修學旅行の途中かと見えるやうな日に燒けた女學生の群が、車窓に近くゆき過ぐるのを眺めることすら、私はそれを樂しみにした。
 更に山地深く進んだ。
「父さん柏原《かいばら》といふところへ來たよ」
「柏原と書いて、(かいばら)か。讀めないなあ。」
 私も鷄二も首をひねつた。土地不案内な私達は、ゆく先で讀みにくい地名に逢つた。石生と書いて、(いさふ)と讀ましてあるのも、むづかしい。その邊は生活に骨の折れさうな山村でもある。私達はやせた桑の畠などを見て通り過ぎた。黒井といふ驛あたりから、福知山《ふくちやま》迄は殆んど單調な山の上の旅で、長く續いた道を歩いて見たら、かなり退屈するだらうと思はれるところだ。もう一里來た、もう二里來たといつた時分の昔の人の徒歩や馬上の旅も思ひやられる。

 京都から福知山を經て城崎《きのさき》の間を往來した昔は、男の脚で四日、女の脚ならば五日路といつたものであると聞く、大阪からするものは更にそれ以上に日數を費したであらう。私達の乘つてゆく汽車が遠く山陰道方面の海岸へ向けてかなりの高地を越えつゝあることは、山から切り出す材木や炭の俵などが鄙びた停車場の構内に積み重ねてあるのを見ただけでも、それを知ることが出來る。おそらくあの上方邊の人達が「しんど、しんど」といひながら山また山を越したらう昔を思ふと、一息に暗い穴の中を通り過ぎてゆく今日の汽車旅は比較にもなるまいが、それでも私達はかなり暑苦しい思ひで幾つかのトンネルを迎へたり送つたりした。車中の人達は、と見ると窓のガラス戸を閉めたり開けたりするのに忙がしいものがある。襲ひくる煙のうづ卷く中で、卷煙草の火を光らせるものがある。ハンケチに顏をおほうて横になるものがある。石炭のすゝにまみれて、うつかり自分等の髮にもさはられないくらゐであつた。幾たびとなく私は黒ずみ汗ばんだ手を洗ひに行つて、また自分の席へ戻つて來た。鷄二などは次第にこの汽車旅にうんで、たゞうと/\と眠りつゞけて行つた。鐵道の從業員が京都方面へ乘換の人は用意せよと告げにくるころになつて、漸く私の相棒も眼を覺ました。
 福知山は北丹鐵道乘換の地とあつて、大阪からも鐵道線路の落ち合ふ山の上の港のやうなところである。そこには兵營もある。ちよつと松本あたりを思ひださせる。午後の二時近い頃に私達はその驛に掲げてある福知山趾、大江山、鬼の岩窟などとした名所案内の文字を讀んだ。果物の好きな鷄二は、呼び聲も高く賣りにくる夏蜜柑を買ひ求めなどした。僅かの停車時間もあつたから私は汽車から降りて、長い歩廊《プラツトホーム》をあちこちと歩いて見、生絲と織物の産地と聞く福知山の市街を停車場から一目見るだけに滿足してまた動いてゆく車中の人となつた。
 下夜久野《しもやくの》の驛まで行つた。たま/\汽車の窓から舞ひ込んでくる氣まぐれな蜂などがあつて、そんな些細な事も車中の人達の無聊をなぐさめた。その邊から上夜久野《かみやくの》へかけては、山家らしい桑畑の多いところだ。ところ/″\に成長する芭蕉や棕梠をも見る。信州あたりの耕地を見慣れた眼には、田植に使はれてゐる牛を見かけるのもめづらしい。鷄二は私にいつた。「今頃、田植をやつてる。七月に入つてから田植なんてことはないよ。よつぽど水がなかつたんだね。」
 そこいらに出て働いてゐる男や女がゆく先で私達の眼につくのも、鷄二の兄の楠雄が同じ農業に從事してゐるからで。私達がその邊の田舍を窓の外に眺めながら乘つてゆく心は、やがて自分等の郷里の方の神坂《みさか》から落合へ通ふ山路なぞを遠く思ひだす心であつた。

 山陰らしい特色のある眺めが次第に私達の前に展開するやうになつた。何となく地味も變つて來て、ところ/″\に土の色の赤くあらはれたのが眼につく。滴るばかりの緑に包まれた崖も、野菜のつくつてある畑も赤い。この緑と赤の調和も好い。關東地方の農家を見慣れた眼には、特色のある草屋根の形
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