見せた。そこは全く内地と交渉のない島であるとか、唯、そこに住む島民のうちに死亡者を出した時にのみ、こちらの海岸に向けて烽火《のろし》を高く打ちあげるといふ。それは死亡者を囘向するための讀經を頼むといふ相圖であるともいふ。山陰の西にはそんな島も隱れてゐるかと思つた。
午後の一時ごろ旅の私達は神社の額殿の内で晝食の饗應を受けた。この境内には一隻の白いボートが置いてあつたが、そのボートこそ例の敗殘の露艦ウラル號の乘組員を乘せて着いた日本海々戰の記念と知れた。
十六 津和野《つわの》まで
いよ/\旅も終りに近づいた。午後の四時ごろには、私達は益田から津和野を指して遠く歸路に向はうとする人であつた。高津へ同行した人達は益田の停車場まで私達を送つて來た。そのうち鮎の粕漬でも送らうなどといつて別れを惜む人がある。これから汽車で乘つて行くところは高角山の方で望んで來た高津川の上流にあたると私達にいつて見せる人もある。益田の宿に着くから、今またこの停車場を辭し去るまで、こゝの驛長龜井君も暇さへあれば私達のやうな旅人を見に來てくれたが、これでなければ地方の驛長は勤まらないものかと感心した。この龜井君、大谷君、その他の人達にも別れを告げて、やがて私達は益田を離れた。高津山に沿うて、横田といふ驛を過ぎた。大田、濱田、津田、益田、横田、これまで經て來た驛の名を數へても田といふ名の町々も多い。私も、石見までやつて來てよかつたと思つた。思ひのほか、この地方の旅は樂しい。もしこれが、東京から三百里近くも離れてゐないで、もつと來易いところであつたら、香住の大乘寺それから松江の菅田庵あたりは、もつと知られていゝ場處だと思つて見て來たが、益田の醫光寺と萬福寺を訪ねた時は一層その感じが深かつた。あの雪舟の遺した庭なぞは山陰道にあるものの中で、最も美しいものの一つであらう。
大阪からこゝまでやつて來た思ひをすれば、長州の萩の港までは、もうそんなに遠くないやうな氣もする。萩の町とは、吉田松陰はじめ明治維新の先覺者に縁故の深かつた土地と聞く。さういふ近い隣國の影響をこの石見地方に結びつけて考へて見ることもおもしろい。眞淵の言葉を借りていふなら、荒魂《あらたま》和魂《にぎたま》雙《ふた》つながら兼ね具はならないところのない人麿のやうな大きな詩人のたましひを生みつけた山陰の西部に、明治年代からの文學者、故人としては森鴎外漁史、島村抱月君、現存の人としては中村吉藏君などの仕事を結びつけて考へて見ることもおもしろい。たしか加藤朝鳥君も石見生れの人のやうに聞いてゐるが、もしさうだとすれば猶々おもしろい。まだこの外に私などの知らない人もあるかも知れない。
青原といふ驛を過ぎた。河の流れに膝ほど深く入つて鮎を釣る人も見かけた。津和野に近づけば近づくほど汽車の窓から見て行く水も谿流のさまに變つて來て、川の中には石もあらはれるやうになつた。木曾あたりのことに思ひ比べるとこの邊の谿はそれほど深くない。でも山地深く進んで行くことを思はせた。
津和野は長州の境に近い小都會である。そこまで行つて、夜汽車で津和野をたち、山口を經て周防の小郡《をごほり》に出れば、私達も最初の豫定通り山陽線を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて歸ることが出來る。津和野に着いたころは、まだそこいらは明るかつた。私達は山陰の旅の終にと思つて小郡行の夜汽車が出るまでの僅かの時間をそこに送つて行かうとした。
思ひがけない土地の人達が、この私達親子のものを待つてゐてくれた。津和野の町長望月君は私達に見物させる獻立までも既に用意して置いてくれた。同君にいはせると、見せたいところはいろ/\あるが、さうは時間が許さない。先づこの町の全景を見渡すことの出來るやうな稻荷神社の境内へ、土地の誇りとする嘉樂園へ、舊藩の英主龜井公の碑《いしぶみ》の前へ、中學校、小學校の庭へ、それから舊藩の文武の學校で津和野藩の人材が皆養成されたといふ養老館の跡へ。暮れさうで暮れない夏の日も、自動車で驅け※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて見る旅の私達には短かつた。
「工業や商業はほかの町に讓るとしましても、教育事業だけは津和野が引受けて見せますよ。」
望月君はこんな熱心な調子の人だ。
養老館の跡を訪ねるころは、そろ/\薄暗かつた。こゝは故鴎外漁史の生地と聞くもなつかしい。養老館には學則風のものを書いた、古い額も殘つてゐる。國學、漢學、蘭學、醫學、數學、武術――鴎外漁史の學問にそつくりだ。人の生れて來るのも偶然ではない。構内には郷土館があり、圖書館があり、集産館の設けもあつて、小規模ながら津和野ミユウゼアムといへるのもめづらしく思つた。
津和野に來て見ると、こゝにはすでに長州の色彩が濃い。石見からするものと、長州
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