眼《まなこ》の色のうるほひは
吾《わ》が古里《ふるさと》を忍べばか
蹄《ひづめ》も薄く肩|痩《や》せて
四つの脚《あし》さへ細りゆき
その鬣《たてがみ》の艶《つや》なきは
荒野《あれの》の空に嘆けばか
春は名取《なとり》の若草や
病める力に石を引き
夏は国分《こくぶ》の嶺《みね》を越え
牝馬にあまる塩を負ふ
秋は広瀬の川添《かはぞひ》の
紅葉《もみぢ》の蔭にむちうたれ
冬は野末に日も暮れて
みぞれの道の泥に饑《う》ゆ
鶴よみそらの雲に飽き
朝の霞の香に酔ひて
春の光の空を飛ぶ
羽翼《つばさ》の色の嫉《ねた》きかな
獅子《しし》よさみしき野に隠れ
道なき森に驚きて
あけぼの露にふみ迷ふ
鋭き爪のこひしやな
鹿よ秋山《あきやま》妻恋《つまごひ》に
黄葉《もみぢ》のかげを踏みわけて
谷間の水に喘《あへ》ぎよる
眼睛《ひとみ》の色のやさしやな
人をつめたくあぢきなく
思ひとりしは幾歳《いくとせ》か
命を薄くあさましく
思ひ初《そ》めしは身を責むる
強き軛《くびき》に嘆き侘《わ》び
花に涙をそゝぐより
悲しいかなや春の野に
湧《わ》ける泉を飲み干すも
天の牝馬のかぎりなき
渇ける口をなにかせむ
悲しいかなや行く水の
岸の柳の樹の蔭の
かの新草《にひぐさ》の多くとも
饑ゑたる喉《のど》をいかにせむ
身は塵埃《ちりひぢ》の八重葎《やへむぐら》
しげれる宿にうまるれど
かなしや地《つち》の青草は
その慰藉《なぐさめ》にあらじかし
あゝ天雲《あまぐも》や天雲や
塵《ちり》の是世《このよ》にこれやこの
轡《くつわ》も折れよ世も捨てよ
狂ひもいでよ軛《くびき》さへ
噛み砕けとぞ祈るなる
牝馬のこゝろ哀《あはれ》なり
尽きせぬ草のありといふ
天つみそらの慕はしや
渇かぬ水の湧くといふ
天の泉のなつかしや
せまき厩《うまや》を捨てはてて
空を行くべき馬の身の
心ばかりははやれども
病みては零《お》つる泪《なみだ》のみ
草に生れて草に泣く
姿やさしき天の馬
うき世のものにことならで
消ゆる命のもろきかな
散りてはかなき柳葉《やなぎは》の
そのすがたにも似たりけり
波に消え行く淡雪《あはゆき》の
そのすがたにも似たりけり
げに世の常の馬ならば
かくばかりなる悲嘆《かなしみ》に
身の苦悶《わづらひ》を恨《うら》み侘び
声ふりあげて嘶《いなな》かん
乱れて長き鬣の
この世かの世の別れにも
心ばかり
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