来た父親《おやじ》よりも、逢いに来ない母親《おふくろ》の心が恋しくも哀しくも思われました。歯医者は熟《じっ》と物を考えて、思い沈んでおりましたのです。奥様はその顔を覗くようになすって、
「桜井さん、何をそんなに考込んでいらっしゃるの」
「成程――さすがは親だ」
「大層感心していらっしゃるのねえ」
「人情という奴は乙なものだ。……そうかなあ」
「何が、そうかなあですよ」
「難有い」
「ホホホホホ」
「そういうものかなア」
「あれ、復《また》」
「そうだ、もう半年も手紙を遣らない」
「誰方《どなた》のところへ」
「なにも私は御恩を忘れて御|無沙汰《ぶさた》をしてるんじゃ無いけれど……」
「まあ、好笑《おかし》いわ」
「つい、多忙《いそがし》くッて手紙を書く暇も無いもんだから」
「貴方、何を言っていらっしゃるの」
「え、私は何か言いましたか」
「言いましたとも。もう半年も手紙を遣らないの、御恩を忘れはしないの、手紙を書く暇がないのッて、――必《きっ》と……思出していらっしゃるんでしょう」と奥様は私の方へ御向きなすって、
「ねえ、お定、桜井さんは御|容子《ようす》が好《よく》っていらっしゃるか
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