まして、仏壇のかげに桑の葉じょきじょき、まあこれをやらない家は無いのです。奥様は御慣れなさらないことでもあり、御嫌いでもあり、蚕の臭《におい》を嗅《か》げば胸が悪くなると仰《おっしゃ》る位でした。御本家の御女中方が灰色の麻袋を首に掛けて、桑の嫩芽《しんめ》を摘みに御出《おいで》なさる時も、奥様は長火鉢に倚《もた》れて、東京の新狂言の御噂さをなさいました。
 もともと旦那様は奥様に御執心で、御二人で楽《たのし》い御暮をなさりたいという外に、別に御望は無いのですから、唯もう嬉しいという御顔を見たり、御声を聞たりするのが何よりの御楽み――こうもしたら御喜びなさるか、ああもしたら御機嫌が、と気を御|揉《も》みなさいました。それは奥様を呼捨にもなさらないで、「綾さん、綾さん」と、さん付になさるのでも知れます。旦那様がこれですから、奥様は家庭《おうち》を温泉の宿のような気で、働くという昼があるでなければ、休むという夜があるでもなし、毎日好いた事して暮しました。「お定、きょうは幾日《いくにち》だっけねえ」と、日も御存《ごぞんじ》ないことがある。たまたま壁の暦を見て、時の経つのに驚きました位。夢の間に軒の花菖蒲《はなしょうぶ》も枯れ、その年の八せんとなれば甲子《きのえね》までも降続けて、川の水も赤く濁り、台所の雨も寂しく、味噌も黴《か》びました。祗園《ぎおん》の祭には青簾《あおすだれ》を懸けては下《はず》し、土用の丑《うし》の鰻《うなぎ》も盆の勘定となって、地獄の釜の蓋《ふた》の開くかと思えば、直《じき》に仏の花も捨て、それに赤痢の流行で芝居の太鼓も廻りません。奥様は外《そと》の御歓楽《おたのしみ》をなさりたいにも、小諸は倹約《しまつ》な質素《じみ》な処で、お茶の先生は上田へ引越し、謡曲《うたい》の師匠は飴《あめ》菓子を売て歩き、見るものも聞くものも鮮《すくな》いのですから、唯かぎりある御家《おうち》の内の御歓楽ばかり。思えば飽きもなさる筈《はず》です。終《しまい》には絹|手※[#「※」は底本では「はばへん+白」、18−15]《ハンケチ》も鼻を拭《か》んで捨て、香水は惜気もなく御紅閨《おねま》に振掛け、気に入らぬ髪は結立《ゆいたて》を掻乱《かきこわ》して二度も三度も結わせ、夜食好みをなさるようになって、糠味噌《ぬかみそ》の新漬に花鰹《はながつお》をかけさせ、茶漬を召上った後で、「もっと何か甘《おい》しい物はないか」と仰るのでした。新酔月の料理も二口三口召上って見て、犬にくれました。女の歓楽《たのしみ》ほど短いものはありません。奥様はその歓楽にすら疲れて、飽々となさいました。
「毎日、毎日、同じ事をするのかなア」
 というのは、柱に倚《もた》れての御独語《おひとりごと》でした。浮気な歓楽が奥様への置土産は、たったこの一語《ひとこと》です。
 次第に奥様は短気《きみじか》にも御成なさいました。旦那様は物事が精密《こまか》過《すぎ》て、何事にもこの御気象が随《つ》いて廻るのですから、奥様はもう煩《うるさ》いという御顔色をなさるのでした。「これは乃公《おれ》の病気だから止《や》められない」と、能《よ》く御自分でも承知していらっしゃるのです。殊《こと》に、奥様が癇癪《かんしゃく》を起した時なぞは、「ちょッ、貴方《あなた》のように濃厚《しつこ》い方はありゃしない」と言って、ぷいと立って行って御了いなさることも有ました。奥様の癇癪の起きた日は直《すぐ》に知れます。毎《いつ》でも御顔色が病人のようになって、鼻の先が光りまして、眉《まゆ》の間が茶色に見えます。後の首筋を蒼くして、無暗《むやみ》に御部屋の雑巾掛や御掃除をさせて、物を仰るにも御声が咽喉《のど》へ乾《ひから》びついたようになります。そうなると、旦那様と御取膳《おとりぜん》で御飯を召上る時でも、口を御|利《き》きなさらないことがありました。
 旦那様は五黄《ごおう》の金《かね》、その年の運気は吉、それに引換え奥様は八方塞《はっぽうふさがり》、唯じっとして運勢の開けるのを待てと、菓子屋の隣の悟道先生が占いました。全く、奥様の為には廻合《まわりあわせ》も好くない年と見えて、何かの前兆《しらせ》のように悪《いや》な夢ばかり御覧なさるのでした。女程心細いものは有ません。それを又た苦になさるのが病人のようでした。結構尽《けっこうづくめ》の御身体は弱々しくなり、心《しん》は労《つか》れ、風邪《かぜ》も引き易くなって、朝は欠《あくび》ばかりなさいました。「女というものは、つまらないものだ」と仰って、深い歎息に埋《うずま》って、花も嗅いで御捨てなさいました。旦那様は奥様の御機嫌を取るようになすって、御小使帳が投遣《なげや》りでも、御出迎に出たり出なかったりでも、何時まで朝寝をなさろうとも、それで御小言も仰らず。御家に
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