も質素《じみ》な御方ばかりですから、就中《わけても》奥様御一人が目立ちました。奥様は朝に粧《つく》り、晩に磨《みが》き、透き通るような御顔色の白過ぎて少許《すこし》蒼《あお》く見えるのを、頬の辺へはほんのり紅を点《さ》して、身の丈《たけ》にあまる程の黒髪は相生《あいおい》町のおせんさんに結わせ、剃刀《かみそり》は岡源の母親《おふくろ》に触《あて》させ、御召物の見立は大利《だいり》の番頭、仕立は馬場裏の良助さん――華麗《はで》の穿鑿《せんさく》を仕尽したものです。田舎《いなか》の女程物見高いものは有ません。奥様が花やかな御風俗《おみなり》で御通りになる時は、土壁の窓から眺め、障子の穴から覗き、目と目を見合せて冷《いや》な笑いかたを為るのです。そんなことは奥様も御存《ごぞんじ》なしで、御慈悲に拝ませて遣《や》るという風をなさりながら町を御歩行《おあるき》なさいました。たまたま途中《みち》で御親類の御女中方に御逢なさることが有ても、高い御|挨拶《あいさつ》をなさいました。奥様の目から見ると、この山家の女は松井川の谷の水車――毎日同じことをして廻っている、とまあ映るのです。たとえ男が長い冬の日を遊暮しても、女は克《よ》く働くという田舎の状態《ありさま》を見て、てんで笑って御了いなさる。全く、奥様は小諸の女を御存《ごぞんじ》ないのです。これを御本家|始《はじめ》御親類の御女中に言わせると折角|花車《きゃしゃ》な当世の流行を捨《すて》て、娘にまで手織縞で得心させている中へ、奥様という他所者が舞込で来たのは、開けて贅沢《ぜいたく》な東京の生活《くらし》を一断片《ひときれ》提げて持って来たようなもの、としか思われないのでした。ですから、骨肉《しんみ》の旦那様よりか、他人の奥様に憎悪《にくしみ》が多く掛る。町々の女の目は褒《ほめ》るにつけ、譏《そし》るにつけ、奥様の身一つに向いていましたのです。
 春も深くなっての夕方には、御二人で手を引いて、遅咲の桜の蔭から飛騨《ひだ》の遠山の雪を眺め眺め静に御散歩をなさることもありました。さあ、旧弊な御親類の御女中方は、御夫婦一緒に御花見すらしたことが無いのですから、こんな東京風――夢にも見たことの無い、睦《むつ》まじそうに手を引き連れて屋外《うちのそと》を御歩きなさる御様子を初めて見て、驚いて了いました。得たり賢しと、悋気《りんき》深い手合がつまらんことを言い触して歩きます。私は奥様の御噂さを聞くと、口惜《くや》しいと思うことばかりでした。
 春雨あがりの暖い日に、私は井戸端で水汲《みずくみ》をしておりますと、おつぎさん――矢張《やはり》柏木の者で、小諸へ奉公に来ておりますのが通りかかりました。
「おつぎさん、どちらへ」
 と声を掛ると、おつぎさんは酸漿《ほおずき》を鳴しながら、小|肥《ぶと》りな身体を一寸|揺《ゆす》って、
「これ」と袖に隠した酒の罎《びん》を出して見せる。
「お使かね」
「ああ」
「御苦労さま」
「なあ、お定さん、お前許《まいんとこ》の奥様《おくさん》は……あの御盲目《おめくら》さんだって言うが、真実《ほんとう》かい」
「まあ、おつぎさんの言うこと」
「ホホホホホホホホホ、だって評判だよ。こないだの夕方、ホラお富婆さんなあ、あの人が三の門の前に立ってると、お前許《まいんとこ》の旦那様と奥様が懐古園の方から手を引かれて降りて来たと言うよ。私《おら》嫌《いや》だ。お盲目《めくら》さんででも無くて、手を引かれて歩くという者があるもんかね」
「馬鹿をお言いよ」
 と私は水を掛る真似《まね》をしました。おつぎさんはお尻を叩《たた》いて笑いながら、
「好《いい》御主人を持って御仕合《おしあわせ》」
 と言捨て逃げる拍子に、泥濘《ぬかるみ》ヘ足を突込む、容易に下駄の歯が抜けない様子。「それ見たか」と私は指差をして、思うさま笑ってやりました。故《わざ》と、
「どうも実《まこと》に御気毒様」
 井戸端に遊んでいた鶩《あひる》が四羽ばかり口嘴《くちばし》を揃《そろ》えて、私の方へ「ぐわアぐわア」と鳴いて来ました。忌々しいものです。私は柄杓《ひしゃく》で水を浴せ掛ると、鶩は恰《さ》も噂好《うわさずき》なお婆さん振《ぶっ》て、泥の中を蹣跚《よろよろ》しながら鳴いて逃げて行きました。

    二

 台所の戸に白い李《すもも》の花の匂うも僅《わずか》の間です。山家の春は短いもので、鮨《すし》よ田楽《でんがく》よ、やれそれと摺鉢《すりばち》を鳴しているうちに、若布売《わかめうり》の女の群が参るようになります。越後訛《えちごなまり》で、「若布はようござんすかねえ」と呼んで来る声を聞くと、もう春蚕《はるこ》で忙しい時になるのでした。
 御承知の通、小諸は養蚕|地《どこ》ですから、寺の坊さんまでが衣の袖を捲《まく》り
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