御覧よ。まあ、それでも御似合なさること。まるで桜井さんは女のように御見えなさるんだもの」
 と仰って、私の手を握りしめるのです。
 私は歯医者から美しい帯上《おびあげ》を頂きました。
 奥様の御|差図《さしず》で、葡萄酒を胡燵《おこた》の側に運びまして、玻璃盞《コップ》がわりには京焼の茶呑|茶椀《ぢゃわん》を上げました。静な上に暖で、それは欺《だま》されたような、夢心地のする陽気。年の内とは言いながら梅も咲《さき》鶯も鳴くかと思われる程。猫まで浮れて出て行きました。私は次の間に退《さが》って、春の夜の夢のような恋の御物語に聞惚れて、唐紙の隙間《すきま》から覗《のぞ》きますと、花やかな洋燈《ランプ》の光に映る奥様の夜の御顔は、その晩位御美しく見えたことは有ませんでした。奥様があの艶《つや》を帯《も》った目を細くなすって葡萄酒を召上るさまも、歯医者が例の細い白い手を振って楽しそうに笑うさまも、よく見えました。御物語も深くなるにつけ、昨日の御心配も、明日の御|煩悶《わずらい》も、すっかり忘れて御了いなすって、御二人の口唇《くちびる》には香油《においあぶら》を塗りましたよう、それからそれへと御話が滑《はず》みました。歯医者は桜色の顔を胡燵《おこた》に擦《こす》りつけて、
「奥さん」
「あれ復《ま》た。後生ですから『奥さん』だけは廃《よ》して頂戴よ」
 こころやすだてから出たこの御言葉は、言うに言われぬほど男の心を嬉しがらせたようでした。男は一寸舌なめずりをして、酒に乾いた口唇を動かしながら、
「酔った。酔った。何故こんなに酔ったか解らない」
「だっても御酒《ごしゅ》を召上ったんでしょう」奥様は笑いました。
「少ばかりいただいて、手までこんなに紅くなるとは」
 と出して見せる。
「でも、御覧なさいな、私の顔を」
 と奥様は頬《ほお》に掌を押当てて御覧なさいました。
「貴方はちっとも紅く御成《おなん》なさらない。紅くならないで蒼《あお》くなるのは、御酒が強いんだって言いますよ。――貴方はきっと御強いんだ」
「よう御座んす。沢山《たんと》仰い」と奥様はすこし甘えて、「ですがねえ、桜井さん、私は何程《どんなに》酔いたいと思っても、苦しいばかりで酔いませんのですもの」
 男は奥様の御言葉に打たれて、黙って奥様の美しい目元を熟視《みつめ》ました。奥様は障子に映る男の影法師を暫く眺めてい
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