の御祝に、これは銀行から私へくれたのだ。まあ、私に取っては名誉な記念だ。そら、盃の中に名前が彫ってあるだろう。御覧よ、この奉書には種々《いろいろ》文句が書いてある」
「拝見しました」
「もっと能《よ》く見ておくれ。そんな冷淡な挨拶《あいさつ》があるものか。折角こうして、お前に見せようと思って持って来たものを……何とか、一言位」
「ですから拝見しましたと言ってるじゃ有ませんか」
 旦那様は口を噤《つぐ》んで了いました。御互に物を仰らないのは、仰るよりも猶《なお》か冷い心地《こころもち》がしましたのです。旦那様は少許《すこし》震えて、穴の開く程奥様の御顔を熟視《みつめ》ますと、奥様は口唇《くちびる》に微《かすか》な嘲笑《さげすみわらい》を見《みせ》て、他の事を考えておいでなさるようでした。やがて、旦那様は御盃を取上げて、熟々《つくづく》眺めながら歎息《ためいき》を吐《つ》いて、
「そう女というものは男の事業《しごと》に冷淡なものかな。今までは、もうすこし同情《おもいやり》が有るものかと思っていた」
「どうせ私なぞに貴方がたの成さる事は解りません」
「無論さ。何も解って貰おうとは言やしない。同情が無いと言ったんだ。男の事業が解る位なら、そんな挨拶の出来よう筈《はず》もない。まあ、私の言うことを能く聞いてくれ。自慢をするじゃアないが、今日《こんにち》小諸の商業は私の指先一つでどうにでも、動かせる。不景気だ、不景気だ、こう口癖のように言いながらも、小諸の商人が懐中《ふところうち》の楽なのは、私が銀行に巌張《がんば》っているからだ。町会の事業でも、計画でも、皆私の意見を基にしてやっている。小諸が盛んになるも、衰えるも、私の遣方《やりかた》一つにあるのだ。その私が事業《しごと》の記念だと言って、爰《ここ》へこうして並べて、お前に見て喜んで貰おうとしているのに……アハハハハハハ」
 と、旦那様は熱い涙を手に持った黄金の御盃へ落しました。
 やがて、御盃や御羽織を掻浚《かきさら》うようになすって、旦那様は御部屋から御座敷の方へいらっしゃる。御様子がどうも尋常《ただ》ではないと、私も御後から随いて行って見ました。もうもう堪《こら》えきれないという御様子で、突然《いきなり》、奉書を鷲掴《わしづか》みにして、寸断々々《ずたずた》に引裂いて了いました。啜泣《すすりなき》の涙は男らしい御顔を流
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