んでしたけれど、御顔を見ているうちに、美しい朱唇《くちびる》が曲《ゆが》んで来て、終《しまい》に微笑《にっこりわらい》になって了いました。
 洋燈《ランプ》の側にうとうとしていた猫が、急に耳を振って、物音に驚いたように馳出《かけだ》したので、奥様も私も殿方の御噂さを休《や》めて聞耳を立てていますと、須叟《やがて》猫は御部屋へ帰って来て、前|脚《あし》を延しながら一つ伸《のび》をして、撓垂《しなだれ》るように奥様の御膝へ乗りました。御子様がないのですから、奥様も恰《さ》も懐しそうに抱〆《だきしめ》て、白い頬をその柔い毛に摺付《すりつけ》て、美しい夢でも眼の前を通るような溶々《とけどけ》とした目付をなさいました。
 つい側に針箱が有ました。奥様はそれを引寄せて、引出のなかから目も覚めるような美しい半|襟《えり》を取出して、「こないだから、これをお前に上げよう上げようと思っていたんだよ」
 と仰りながら私に掴《つか》ませました。夜のことですから、紫|縮緬《ちりめん》が小豆《あずき》色に見えました。私は目を円くして、頂いてよいやら、悪いやらで、さんざん御断りもして見たのです。
「あれ、お前のようにお言《いい》だと、私が困るじゃないか。そんなに言う程の物じゃないんだよ。お前がよく勤めておくれだから、寸《ほん》の私の志と思っておくれ。……いいからさ、それは仕舞ってお置き」
 奥様はまだ何か言いたそうにして、それを言得ないで、深い歎息《ためいき》を御吐《おつ》きなさるばかりでした。危い絶壁《がけ》の上に立って、谷底でも御覧なさるような目付をなさりながら、左右を見廻して震えました。「お前だから話すがねえ」までは出ましても、二の句が口|籠《ごも》って、切れて了います。
「今夜私がお前に話すことは、決して誰にも話さないという約束をしておくれ。それを聞かないうちは――然しお前に限ってそんな軽卒《かるはずみ》なことはあるまいけれど」
 幾度も念を押して、まだ仰り悪《にく》いという風でしたが、さて話そうとなると、急に御顔が耳の根元までも紅くなりました。
 遂々《とうとう》奥様は御声をちいさくなすって、打開けた御話を私になさいました。その時、私は始めて歯医者とのこれまでの関係を聞きましたのです。私は手を堅く握〆られて、妙に顔が熱《ほて》りました。他《ひと》から内証を打開《うちあ》けられた時ほど
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