さも面白そうに歩くのが癖でした。この人は東京の生ですから、新しい格子作を見る度《たび》に、都を想起《おもいだ》すと言っておりました。一体、東京から来る医者を見ると、いずれも役者のように風俗《みなり》を作っておりますが、さて男振《おとこぶり》の好《いい》という人も有ません。然し、この歯医者ばかりは、私も風采《ようす》が好と思いましたのです。
この人が来る時は、よく私に物を携《も》って来てくれました。この人が帰って去《い》った後で、爺さんは必《きっ》と白銅を一つ握っておりました。
或日、旦那様は銀行の御用で御泊掛《おとまりがけ》に上田まで御出ましでした。その晩は戸も早く閉めました。私も、さっさと台所を片付けたいと思い、鍋は伏せ、皿小鉢は仕舞い、物置の炭をかんかん割って出し、猫の足跡もそそくさと掃《ふ》いて、上草履《うわぞうり》を脱ぎまして、奥様の御部屋へ参りました。まだ宵の口から、奥様は御横におなりなすって、寝ながら小説本を御覧なさるところでした。誰を憚《はばか》るでもない気散じな御様子。あらわな御胸の白い乳房もすこし見えて、左の手はだらりと畳の上に垂れ、右の足は膝頭から折曲げ、投げだした左の足の長い親指の反《そ》ったまで、しどけない御姿は花やかな洋燈《ランプ》の夜の光に映りまして、昼よりは反《かえっ》て御美しく思われました。
「奥様、御足《おみあし》でも撫《さす》りましょうか」
と私は御傍へ倚添《よりそ》いました。
「ああ、もうお済かい」と奥様は起直って、懐《ふところ》を掻合《かきあわ》せながら、「お前、按摩《あんま》さんをしてくれるとお言いなの。今日はね、肩のところが痛くて痛くて――それじゃ、一つ揉んで見ておくれな」
「あれ、御寝《およ》っていらしったら、どうでございます」
「なに、起きましょうよ」
私はよく母親《おふくろ》の肩を揉せられましたから、その時奥様のうしろへ廻りまして、柔《やわらか》な御肩に触ると、急に母親を想出しました。母親の労働《はたら》く身体から思えば、奥様を揉む位は、もう造作もないのでした。
「お世辞でも何んでもないが、お定はなかなか指に力があるのねえ。お前のように能くしておくれだと、真実《ほんとう》に私ゃ嬉しい。旦那様も、日常《しょっちゅう》褒《ほ》めていらっしゃるんだよ」
それから奥様は私の器量までも御褒め下さいました。奥様が私を御
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