れもしない。母親に連れられて家《うち》を出たのは三月の二日でした――山家《やまが》ではこの日を山替《でがわり》としてあるのです。微《すこ》し風が吹いて土塵《つちぼこり》の起《た》つ日でしたから、乾燥《はしゃ》いだ砂交りの灰色な土を踏《ふん》で、小諸をさして出掛けました。母親は新しい手拭《てぬぐい》を冠《かぶ》って麻裏穿《あさうらばき》。私は萌黄《もえぎ》の地木綿の風呂敷包を提《さ》げて随いて参りましたのです。こうして親子連で歩くということが、何故かこの日に限って恥しいような悲しいような気がしました。浅々と青く萌初《もえそ》めた麦畠《むぎばたけ》の側を通りますと、丁度その畠の土と同じ顔色の農夫《ひゃくしょう》が鍬《くわ》を休めて、私共を仰山らしく眺《なが》めるのでした。北国街道は小諸へ入る広い一筋道。其処《そこ》まで来れば楽なものです。昔の宿場風の休茶屋には旅商人《たびあきんど》の群が居りました。「唐松《からまつ》」という名高い並木は伐《きり》倒される最中で、大木の横倒《よこたおし》になる音や、高い枝の裂ける響や、人足の騒ぐ声は戦闘《いくさ》のよう。私共は親子連の順礼と後《あと》になり前《さき》になりして、松葉の香を履《ふん》で通りました。
 小諸の荒町から赤坂を下りて行きますと、右手に当って宏壮《おおき》な鼠色の建築物《たてもの》は小学校です。その中の一|棟《むね》は建増《たてまし》の最中で、高い足場の内には塔の形が見えるのでした。その構外《かまえそと》の石垣に添《つい》て突当りました処が袋町《ふくろまち》です。それはだらだら下りの坂になった町で、浅間の方から流れて来る河の支流《わかれ》が浅く町中を通っております。この支流《ながれ》を前に控えて、土塀《どべい》から柿の枝の垂下っている家が、私共の尋ねて参りました荒井様でした。見付《みつき》は小諸風の門構でも、内へ入れば新しい格子作《こうしづくり》で、二階建の閑静な御|住居《すまい》でした。
 丁度、旦那様の御留守、母親《おふくろ》は奥様にばかり御目に懸《かか》ったのです。奥様は未だ御若くって、大《おおき》な丸髷《まるまげ》に結って、桃色の髪飾《てがら》を掛た御方でした。物腰のしおらしい、背のすらりとした、黒目勝の、粧《つく》れば粧るほど見勝《みまさ》りのしそうな御|容貌《かおだち》。地の御生《おうまれ》でないというこ
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