っと何か甘《おい》しい物はないか」と仰るのでした。新酔月の料理も二口三口召上って見て、犬にくれました。女の歓楽《たのしみ》ほど短いものはありません。奥様はその歓楽にすら疲れて、飽々となさいました。
「毎日、毎日、同じ事をするのかなア」
 というのは、柱に倚《もた》れての御独語《おひとりごと》でした。浮気な歓楽が奥様への置土産は、たったこの一語《ひとこと》です。
 次第に奥様は短気《きみじか》にも御成なさいました。旦那様は物事が精密《こまか》過《すぎ》て、何事にもこの御気象が随《つ》いて廻るのですから、奥様はもう煩《うるさ》いという御顔色をなさるのでした。「これは乃公《おれ》の病気だから止《や》められない」と、能《よ》く御自分でも承知していらっしゃるのです。殊《こと》に、奥様が癇癪《かんしゃく》を起した時なぞは、「ちょッ、貴方《あなた》のように濃厚《しつこ》い方はありゃしない」と言って、ぷいと立って行って御了いなさることも有ました。奥様の癇癪の起きた日は直《すぐ》に知れます。毎《いつ》でも御顔色が病人のようになって、鼻の先が光りまして、眉《まゆ》の間が茶色に見えます。後の首筋を蒼くして、無暗《むやみ》に御部屋の雑巾掛や御掃除をさせて、物を仰るにも御声が咽喉《のど》へ乾《ひから》びついたようになります。そうなると、旦那様と御取膳《おとりぜん》で御飯を召上る時でも、口を御|利《き》きなさらないことがありました。
 旦那様は五黄《ごおう》の金《かね》、その年の運気は吉、それに引換え奥様は八方塞《はっぽうふさがり》、唯じっとして運勢の開けるのを待てと、菓子屋の隣の悟道先生が占いました。全く、奥様の為には廻合《まわりあわせ》も好くない年と見えて、何かの前兆《しらせ》のように悪《いや》な夢ばかり御覧なさるのでした。女程心細いものは有ません。それを又た苦になさるのが病人のようでした。結構尽《けっこうづくめ》の御身体は弱々しくなり、心《しん》は労《つか》れ、風邪《かぜ》も引き易くなって、朝は欠《あくび》ばかりなさいました。「女というものは、つまらないものだ」と仰って、深い歎息に埋《うずま》って、花も嗅いで御捨てなさいました。旦那様は奥様の御機嫌を取るようになすって、御小使帳が投遣《なげや》りでも、御出迎に出たり出なかったりでも、何時まで朝寝をなさろうとも、それで御小言も仰らず。御家に
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