まらんことを言い触して歩きます。私は奥様の御噂さを聞くと、口惜《くや》しいと思うことばかりでした。
 春雨あがりの暖い日に、私は井戸端で水汲《みずくみ》をしておりますと、おつぎさん――矢張《やはり》柏木の者で、小諸へ奉公に来ておりますのが通りかかりました。
「おつぎさん、どちらへ」
 と声を掛ると、おつぎさんは酸漿《ほおずき》を鳴しながら、小|肥《ぶと》りな身体を一寸|揺《ゆす》って、
「これ」と袖に隠した酒の罎《びん》を出して見せる。
「お使かね」
「ああ」
「御苦労さま」
「なあ、お定さん、お前許《まいんとこ》の奥様《おくさん》は……あの御盲目《おめくら》さんだって言うが、真実《ほんとう》かい」
「まあ、おつぎさんの言うこと」
「ホホホホホホホホホ、だって評判だよ。こないだの夕方、ホラお富婆さんなあ、あの人が三の門の前に立ってると、お前許《まいんとこ》の旦那様と奥様が懐古園の方から手を引かれて降りて来たと言うよ。私《おら》嫌《いや》だ。お盲目《めくら》さんででも無くて、手を引かれて歩くという者があるもんかね」
「馬鹿をお言いよ」
 と私は水を掛る真似《まね》をしました。おつぎさんはお尻を叩《たた》いて笑いながら、
「好《いい》御主人を持って御仕合《おしあわせ》」
 と言捨て逃げる拍子に、泥濘《ぬかるみ》ヘ足を突込む、容易に下駄の歯が抜けない様子。「それ見たか」と私は指差をして、思うさま笑ってやりました。故《わざ》と、
「どうも実《まこと》に御気毒様」
 井戸端に遊んでいた鶩《あひる》が四羽ばかり口嘴《くちばし》を揃《そろ》えて、私の方へ「ぐわアぐわア」と鳴いて来ました。忌々しいものです。私は柄杓《ひしゃく》で水を浴せ掛ると、鶩は恰《さ》も噂好《うわさずき》なお婆さん振《ぶっ》て、泥の中を蹣跚《よろよろ》しながら鳴いて逃げて行きました。

    二

 台所の戸に白い李《すもも》の花の匂うも僅《わずか》の間です。山家の春は短いもので、鮨《すし》よ田楽《でんがく》よ、やれそれと摺鉢《すりばち》を鳴しているうちに、若布売《わかめうり》の女の群が参るようになります。越後訛《えちごなまり》で、「若布はようござんすかねえ」と呼んで来る声を聞くと、もう春蚕《はるこ》で忙しい時になるのでした。
 御承知の通、小諸は養蚕|地《どこ》ですから、寺の坊さんまでが衣の袖を捲《まく》り
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