から出た声で快活に笑った。「まるで、ゴツゴツした岩みたような連中ばかりだ」と彼は附添《つけた》した。
「しかし、君、その岩が好くなって来るから不思議だよ」と高瀬は戯れて言った。

 子安は先へ別れて行った。鉄道の踏切を越した高い石垣の側で、高瀬はユックリ歩いて来る学士を待受けた。
「高瀬さん、私も小諸の土に成りに来ましたよ」
 と学士は今までにない忸々《なれなれ》しい調子で話し掛けて、高瀬と一緒に石垣|側《わき》の段々を貧しい裏町の方へ降りた。
「……私も今、朝顔を作ってます……上田ではよく作りました……今年はウマくいくかどうか知りませんがネ、まあ見に来て下さらんか」
 こう歩き歩き高瀬に話し掛けて行くうちに、急にポツポツ落ちて来た。学士は家の方の朝顔|棚《だな》が案じられるという風で、大急ぎで高瀬に別れて行った。
 大きな石の砂に埋っている土橋の畔《たもと》あたりへ高瀬が出た頃は、雨が彼の顔へ来た。貧しい家の軒下には、茶色な――茶色なというよりは灰色な荒い髪の娘が立って、ションボリと往来の方を眺めていた。高瀬は途《みち》を急ごうともせず、顔へ来る雨を寧《むし》ろ楽みながら歩いた。そして寒い凍え死ぬような一冬を始めてこの山の上で越した時分には風邪《かぜ》ばかり引いていた彼の身体にも、いくらかの抵抗する力が出来たことを悦《よろこ》んだ。ビッショリ汗をかきながら家へ戻って見ると、その年も畠に咲いた馬鈴薯の白い花がうなだれていた。雨に打たれる乾いた土の臭気《におい》は新しい書籍を並べた彼の勉強部屋までも入って来た。
 七月に入って、広岡理学士は荒町裏の家の方で高瀬を待受けた。高瀬の住む町からもさ程離れていないところで、細い坂道を一つ上れば体操教師の家の鍛冶《かじ》屋の店頭《みせさき》へ出られる。高い白壁の蔵が並んだ石垣の下に接して、竹薮《たけやぶ》や水の流に取囲《とりま》かれた位置にある。田圃《たんぼ》に近いだけに、湿気深い。
「お早う」
 と高瀬は声を掛けて、母屋《おもや》の横手から裏庭の方へ来た。
 深い露の中で、学士は朝顔|鉢《ばち》の置並べてある棚の間をあちこちと歩いていた。丁度学士の奥さんは年長《うえ》のお嬢さんを相手にして開けひろげた勝手口で働いていたが、その時庭を廻って来た。
 奥さんは性急《せっかち》な、しかし良家に育った人らしい調子で、
「宅じゃこの通り朝顔狂《あさがおきちがい》ですから、小諸へ来るが早いか直ぐに庭中朝顔鉢にしちまいました――この棚は音さんが来て造ってくれましたよ――まあこんな好い棚を――」
 と高瀬に話した。奥さんはユックリ朝顔を眺められないという風に言ったが、夫の好きな花に趣味も持たない人では無いらしかった。彼女は学士が植えて楽む種々《いろいろ》な朝顔の変り種の名前などまでもよく暗記《そら》んじていた。
「高瀬さんに一つ、私の大事な朝顔を見て頂きましょうか」
 と学士が言って、数ある素焼の鉢の中から短く仕立てた「手長」を取出した。学士はそれを庭に向いた縁側のところへ持って行った。鉢を中にして、高瀬に腰掛けさせ、自分でも腰掛けた。
 奥さんは子供衆の方にまで気を配りながら、
「これ、繁、塾の先生が被入《いら》しったに御辞儀しないか――勇、お前はまた何だッてそんなところに立っているんだねえ――真実《ほんとう》に、高瀬さん、私も年を取りましたら、気ぜわしくなって困りますよ――」
 奥さんの小言の飛沫《とばしり》は年長《うえ》のお嬢さんにまで飛んで行った。お嬢さんは初々《ういうい》しい頬を紅《あから》めて、客や父親のところへ茶を運んで来た。
 この子供衆の多勢ゴチャゴチャ居る中で、学士が一服やりながら朝顔鉢を眺めた時は、何もかも忘れているかのようであった。
「今咲いてますのは、ホンの丸咲か、牡丹《ぼたん》種ぐらいなものです」と学士は高瀬に言った。「真実《ほんとう》の獅子《しし》や手長と成ったら、どうしても後《おく》れますネ。そのうちに一つ塾の先生方を御呼び申したい……何がなくとも皆さんに集って頂いて、これで一杯|進《あ》げられるようだと可《い》いんですけれど……」

 翌朝高瀬は塾へ出ようとして、例のように鉄道の踏切のところへ出た。線路を渡って行く塾の生徒などもあった。丁度そこで与良町《よらまち》の方からやって来る子安に逢った。毎時《いつも》言い合せたように皆なの落合うところだ。高瀬は子安を待合せて、一諸に塾の方へ歩いた。
 線路|側《わき》の柵について先へ歩いて行く広岡学士の後姿も見えた。
「広岡先生が行くナ」と高瀬が言った。
 子安も歩き歩き、「なんでもあの先生が上田から通って被入《いら》っしゃる時分には、大変お酒に酔って、往来の雪の中に転がっていたことがあるなんて――そんな話ですネ」
「私も聞きま
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