まれた。先生はその高い瓦屋根を高瀬に指して見せた。初めて先生が小諸へ移って来た時は、その太い格子《こうし》の嵌《はま》った窓と重い扉のある城門の楼上が先生の仮の住居《すまい》であったという話をして聞かせた――丁度、先生はお伽話《とぎばなし》でもして聞かせるように。
坂道を上ると、大手の跡へ出る。士族地の方へ行く細い流がその辺の町の間を流れて来ている。二人は広岡理学士の噂《うわさ》などをしながら歩いた。
先生は思いやるように、
「広岡さんも今、上田で数学の塾を開いてますが、余程の逆境でしょう……まあ、私共も先生に同情して、いくらかの時間を助《す》けに来て頂くことにしたんです……それに、君、吾々の塾も中学の設備をして、認可でも受けようというには、肩書のある人が居ないと一寸《ちょっと》これで都合が悪いからネ」
高瀬も笑った。
細い流について行ったところに、本町の裏手に続いた一区域がある。落葉松《からまつ》の垣で囲われた草葺《くさぶき》屋根の家が先生の高瀬を連れて行って見せたところだ。近くまで汁粉屋が借りていたとかで、古い穴のあいた襖、煤《すす》けた壁、汚れた障子などが眼につく。炬燵《こたつ》を切ったあたりは畳も焼け焦げて、紙を貼《は》り着けてある。住み荒した跡だ。
「まあ、こんなものでしょう」
と先生は高瀬に言って、一緒に奥の方まで見て廻った。
「一寸、今、他に貸すような家も見当りません……妙なもので、これで壁でも張って、畳でも入替えて御覧なさい、どうにか住めるように成るもんですよ」
と復た先生が言った。
同じ士族屋敷風の建物でも、これはいくらか後で出来たものらしく、蚕の種紙をあきなう町の商人の所有《もちもの》に成っていた。高瀬はすこしばかりの畠の地所を附けてここを借りることにした。
小使いの音吉が来て三尺四方ばかりの炉を新規に築《つ》き上げてくれた頃、高瀬は先生の隣屋敷の方からここへ移った。
家の裏には別に細い流があって、石の間を落ちている。山の方から来る荒い冷い性質の水だ。飲料には用いられないが、砂でも流れない時は顔を洗うに好い。そこにも高瀬は生《き》のままの刺激を見つけた。この粗末ながらも新しい住居で、高瀬は婚約のあった人を迎える仕度をした。月の末に、彼は結婚した。
長く東京で年月を送って来た高瀬には、塾の周囲《まわり》だけでも眼に映るものが多かった。庭にある桜の花は開いて見ると八重で、花束のように密集《かたま》ったやつが教室の窓に近く咲き乱れた。濃い花の影は休みの時間に散歩する教師等の顔にも映り、建物の白い壁にも映った。学生等は幹に隠れ、枝につかまり、まるで小鳥かなんどのようにその下を遊び廻って戯れた。
「広岡先生も随分|関《かま》わない人ですネ」
と高瀬が桜井先生と正木大尉との居る前で言うと、大尉は笑って、
「関わないんじゃなくて、関えないんでしょう……」
と言った。そういう大尉は着物から羽織まで惜げもなく筒袖にして、塾のために働こうという意気込を示していた。
この半ば家庭のような学校から、高瀬は自分の家の方へ帰って行くと、頼んで置いた鍬《くわ》が届いていた。塾で体操の教師をしている小山が届けてくれた。小山の家は町の鍛冶《かじ》屋だ。チョン髷《まげ》を結った阿爺《おとっ》さんが鍛《う》ってくれたのだ。高瀬はその鉄の目方の可成《かなり》あるガッシリとした柄のついた鍬を提げて、家の裏に借りて置いた畠の方へ行った。
不思議な風体《ふうてい》の百姓が出来上った。高瀬は頬冠《ほおかぶ》り、尻端折《しりはしょ》りで、股引《ももひき》も穿いていない。それに素足だ。柵《さく》の外を行く人はクスクス笑って通った。とは言え高瀬は関わず働き始めた。掘起した土の中からは、どうかすると可憐《かれん》な穎割葉《かいわれば》が李《すもも》の種について出て来る。彼は地から直接《じか》に身体へ伝わる言い難い快感を覚えた。時には畠の土を取って、それを自分の脚《あし》の弱い皮膚に擦《こす》り着けた。
塾の小使も高瀬には先生だった。音吉は見廻りに来て、鍬の持ち方から教えた。
毎日のように高瀬は塾の受持の時間を済まして置いて、家へ帰ればこの畠へ出た。ある日、音吉が馬鈴薯《じゃがいも》の種を籠《かご》に入れて持って来て見ると、漸く高瀬は畠の地ならしを済ましたところだった。彼の妻――お島はまだ新婚して間もない髪を手拭で包み、紅い色の腰巻などを見せ、土掘りの手伝いには似合わない都会風な風俗《なり》で、土のついた雑草の根だの石塊《いしころ》などを運んでいた。
「奥さん、御精が出ますネ」
と音吉は笑いながら声を掛けて、高瀬の掘起した畠を見た。サクの切り方が浅かった。音吉は高瀬から鍬を受取って、もっと深く切って見せた。
「この辺は、まるで焼
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