かった。庭にある桜の花は開いて見ると八重で、花束のように密集《かたま》ったやつが教室の窓に近く咲き乱れた。濃い花の影は休みの時間に散歩する教師等の顔にも映り、建物の白い壁にも映った。学生等は幹に隠れ、枝につかまり、まるで小鳥かなんどのようにその下を遊び廻って戯れた。
「広岡先生も随分|関《かま》わない人ですネ」
と高瀬が桜井先生と正木大尉との居る前で言うと、大尉は笑って、
「関わないんじゃなくて、関えないんでしょう……」
と言った。そういう大尉は着物から羽織まで惜げもなく筒袖にして、塾のために働こうという意気込を示していた。
この半ば家庭のような学校から、高瀬は自分の家の方へ帰って行くと、頼んで置いた鍬《くわ》が届いていた。塾で体操の教師をしている小山が届けてくれた。小山の家は町の鍛冶《かじ》屋だ。チョン髷《まげ》を結った阿爺《おとっ》さんが鍛《う》ってくれたのだ。高瀬はその鉄の目方の可成《かなり》あるガッシリとした柄のついた鍬を提げて、家の裏に借りて置いた畠の方へ行った。
不思議な風体《ふうてい》の百姓が出来上った。高瀬は頬冠《ほおかぶ》り、尻端折《しりはしょ》りで、股引《ももひき》も穿いていない。それに素足だ。柵《さく》の外を行く人はクスクス笑って通った。とは言え高瀬は関わず働き始めた。掘起した土の中からは、どうかすると可憐《かれん》な穎割葉《かいわれば》が李《すもも》の種について出て来る。彼は地から直接《じか》に身体へ伝わる言い難い快感を覚えた。時には畠の土を取って、それを自分の脚《あし》の弱い皮膚に擦《こす》り着けた。
塾の小使も高瀬には先生だった。音吉は見廻りに来て、鍬の持ち方から教えた。
毎日のように高瀬は塾の受持の時間を済まして置いて、家へ帰ればこの畠へ出た。ある日、音吉が馬鈴薯《じゃがいも》の種を籠《かご》に入れて持って来て見ると、漸く高瀬は畠の地ならしを済ましたところだった。彼の妻――お島はまだ新婚して間もない髪を手拭で包み、紅い色の腰巻などを見せ、土掘りの手伝いには似合わない都会風な風俗《なり》で、土のついた雑草の根だの石塊《いしころ》などを運んでいた。
「奥さん、御精が出ますネ」
と音吉は笑いながら声を掛けて、高瀬の掘起した畠を見た。サクの切り方が浅かった。音吉は高瀬から鍬を受取って、もっと深く切って見せた。
「この辺は、まるで焼
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