事をするとしては、あまりに狭過ぎるとは思ったが、いかにも周囲《まわり》が気に入った。で、二度ほど足を運んで、結局工事の出来上るまで待つという約束で、そこを借りることに決めた。
 この話を持って、小諸をさして帰って行く頃は、上州辺は最早《もう》梅に遅い位であった。山一つ越えると高原の上はまだ冬の光景《ありさま》で、それから傾斜を下るに従って、いくらかずつ温暖《あたたか》い方へ向っていた。小諸へ近づけば近づくほど、岩石の多い谷間《たにあい》には浅々と麦の緑を見出《みいだ》すことが出来た。浅間、黒斑《くろふ》、その他の連山にはまだ白い雪があったが、急にそこいらは眼が覚めたようで、何もかも蘇生《そせい》の力に満ち溢《あふ》れていた。五箇月の長い冬籠《ふゆごもり》をしたものでなければ、殆《ほと》んど想像も出来ないようなこの嬉しい心地《ここち》は、やがて、私を小諸の家へ急がせた。
 漸《ようや》く春が来た。北側の草屋根の上にはまだ消え残った雪があったが、それが雨垂のように軒をつたって、溶け始めていた。子供等は私の帰りを待|侘《わ》びて、前の日から汽車の着く度に、停車場まで迎えに出たという。東京の話
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