こへ倒れそうな気がしてならなかった。
 寄ると触ると、私の家では娘達の話が出た。最早お繁の肉体《からだ》は腐って了ったろうか、そんな話が出る度に、私は言うに言われぬ変な気がした。
 家内は姪をつかまえて、
「房ちゃんや菊ちゃんが二人とも達者で居る時分には、よく繁ちゃんのお墓へ連れてって桑の実を摘《と》ってやりましたッけ。繁ちゃんの桑の実だからッて教えて置いたもんですから、行くと、繁ちゃん桑の実頂戴ッて断るんですよ。そうしちゃあ、二人で頂くんです……あのお墓の後方《うしろ》にある桑の樹は、背が高いでしょう。だもんですから、母さん摘《と》って下さいッて言っちゃあ……」
 種夫に乳を呑ませながら、こんな話を私の傍でする。姪はまた姪で、お房やお菊のよく歌った「紫におう董《すみれ》の花よ」という唱歌を歌い出す。
「オイ、止してくれ、止してくれ」
 こう言って、私は子供の話が出ると、他の話にして了った。
 山から持って来た私の仕事が意外な反響を世間に伝える頃、私の家では最も惨澹《さんたん》たる日を送った。ある朝、私は新聞を懐《ふところ》にして、界隈《かいわい》へ散歩に出掛けた。丁度日曜附録の附く日
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