と僅《わず》か離れたところを択《えら》んだ。子供等の墓は間《あい》を置いて三つ並んだ。境内は樹木も多く、娘達のことを思出しに行くに好いような場処であった。葬式の後、家内は姪を連れてそこへ通うのをせめてもの心やりとした。
子供の亡くなったことに就いて、私は方々から手紙を貰った。殊に同じ経験があると言って、長く長く書いて寄《よこ》してくれた雑誌記者があった。君とは久しく往来も絶えて了ったが、その手紙を読んで、何故に君が今の住居《すまい》の不便をも忍ぶか、ということを知った。君は子供の墓地に近く住むことを唯一の慰藉《なぐさめ》としている。
不思議にも、私の足は娘達の墓の方へ向かなく成った。お繁の亡くなった頃は、私もよく行き行きして、墓畔《ぼはん》の詩趣をさえ見つけたものだが、一人死に、二人死にするうちに、妙に私は墓参りが苦しく可懼《おそろ》しく成って来た。
「父さんは薄情だ――子供の墓へお参りもしないで」
よく家のものはそれを言った。
私も行く気が無いではなかった。幾度《いくたび》か長光寺の傍《そば》まで行きかけては見るが、何時でも止して戻って来た。何となく私は眩暈《めまい》して、そこへ倒れそうな気がしてならなかった。
寄ると触ると、私の家では娘達の話が出た。最早お繁の肉体《からだ》は腐って了ったろうか、そんな話が出る度に、私は言うに言われぬ変な気がした。
家内は姪をつかまえて、
「房ちゃんや菊ちゃんが二人とも達者で居る時分には、よく繁ちゃんのお墓へ連れてって桑の実を摘《と》ってやりましたッけ。繁ちゃんの桑の実だからッて教えて置いたもんですから、行くと、繁ちゃん桑の実頂戴ッて断るんですよ。そうしちゃあ、二人で頂くんです……あのお墓の後方《うしろ》にある桑の樹は、背が高いでしょう。だもんですから、母さん摘《と》って下さいッて言っちゃあ……」
種夫に乳を呑ませながら、こんな話を私の傍でする。姪はまた姪で、お房やお菊のよく歌った「紫におう董《すみれ》の花よ」という唱歌を歌い出す。
「オイ、止してくれ、止してくれ」
こう言って、私は子供の話が出ると、他の話にして了った。
山から持って来た私の仕事が意外な反響を世間に伝える頃、私の家では最も惨澹《さんたん》たる日を送った。ある朝、私は新聞を懐《ふところ》にして、界隈《かいわい》へ散歩に出掛けた。丁度日曜附録の附く日
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