ばならないことも多かったので、それから夕方まで私は子供の傍に居なかった。やがて最早《もう》息を引取ったろうか、そんなことを思いながら、病院の方へ急いで見ると、まだお房は静かに眠る状態《さま》である。小鳥も塒《ねぐら》に帰る頃で、幾羽となく椎の樹の方へ飛んで来た。窓のところから眺めると、白い服を着た看護婦だの、癒りかけた患者だのが、彼方此方《あちこち》と庭の内を散歩している。学士達は消毒衣のままで、緑蔭にテニスするさまも見える。ここへお房が入院したばかりの時は、よく私も勧められてテニスの仲間入をしたものだが、最早ラッケットを握る気にも成れなかった。
お房の眼の上には、眸《ひとみ》が疲れると言って、硼酸《ほうさん》に浸した白い布が覆《かぶ》せてあった。時々痙攣の起る度に、呼吸は烈しく、胸は波うつように成った。頭も震えた。もはや終焉《おわり》か、と思って一同子供の周囲《まわり》に集って見ると、復たいくらか収って、眠った。
夕日は室《へや》の内《なか》に満ちた。庭に出て遊ぶ人も何時の間にか散って了った。不忍《しのばず》の池《いけ》の方ではちらちら灯《あかり》が点《つ》く。私達は、半分死んでいる子供の傍で、この静かな夕方を送った。
お房は眠りつづけた。看護の人々も疲れて横に成るものが多かった。夜の九時頃には、私は独《ひと》り電燈の下に椅子に腰掛けてお房の烈しい呼吸の音を聞いていた。堪《た》えがたき疲労、心痛、悲哀などの混《まざ》り合った空気は、このゴロゴロ人の寝ている病室の内に満ち溢《あふ》れた。隣の室の方からは子供の泣声も聞えて来た。時々お房の傍へ寄って、眼の上の白い布を取除いて見ると、子供の顔は汗をかいて紅く成っている。胸も高く踴《おど》っている。
上野の鐘は暗い窓に響いた。
「我もまた、何時までかあるべき……」
こう私は繰返して見た。
分ち与えた髪、瞳《ひとみ》、口唇――そういうものは最早二度と見ることが出来ないかと思われた。無際無限のこの宇宙の間に、私は唯《ただ》茫然《ぼうぜん》自失する人であった。
看護婦が入って来た。体温をはかって見て、急いで表を携えて出て行った。何時の間にか家内は寝台の向側に跪《ひざまず》いていた。私はお房の細い手を握って脈を捜ろうとした。火のように熱かった。
「脈は有りますか」
「むむ、有るは有るが、乱調子だ」
こんな話をして、
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