ろ》しくて、戸が押せなかった。思い切って開けて見ると、お房はすこし沈着《おちつ》いてスヤスヤ眠っている。
翌朝《よくあさ》は殊にワルかった。子供の顔は火のように熱した。それを見ると、病の重いことを思わせる。
「母さん何処《どこ》に居るの?」とお房は探すように言った。
「此処《ここ》に居るのよ」と母は側へ寄ってお房の手に自分のを握《つか》ませた。
「そう……」とお房は母の手を握った。
「房ちゃん、見えないのかい」
と母が尋ねると、お房は点頭《うなず》いて見せた。その朝からお房は眼が見えなかった。
この子供の枕している窓の外には、根元から二つに分れた大きな椎《しい》の樹があった。それと並んで、二本の樫《かし》の樹もあった。若々しい樫の緑は髪のように日にかがやいて見え、椎の方は暗緑で、茶褐《ちゃかっ》色をも帯びていた。その青い、暗い、寂《さ》びきった、何百年経つか解らないような椎の樹蔭から、幾羽となく小鳥が飛出した。その朝まで、私達は塒《ねぐら》とは気が付かなかった。
燕《つばめ》も窓の外を通った。田舎者らしい附添の女はその方へ行って、眺めて、
「ア――燕が来た」
と何か思い出したように言った。丁度看護婦が来て、お房の枕頭《まくらもと》で温度表を見ていたが、それを聞咎《ききとが》めて、
「燕が来たって、そんなにめずらしがらなくても可《よ》かろう」と戯れるように。
「房ちゃんのお迎えに来たんだよ」と附添の女は窓に倚凭《よりかか》った。
「またそんなことを……」と看護婦が叱るように言った。
「しかし、病院へ燕が来るなんて、めずらしいんですよ」
こう附添の女は家内の方を見て、訛《なまり》のある言葉で言って聞かせた。その日、お房の髪は中央《まんなか》から後方へかけて切捨てられた。あまり毛が厚すぎて、頭を冷すに不便であったからで。お房は口も自由に利《き》けなかったがまだそれでも枕頭に積重ねてある毛糸のことを忘れないで、「かいとオ、かいとオ」と言っていた。時々|痰《たん》の咽喉《のど》に掛かる音もした。看護婦はガアゼで子供の口を拭《ぬぐ》って、薬は筆で飲ませた。最早《もう》口から飲食《のみくい》することもムツカシかった。鶏卵に牛乳を混ぜて、滋養|潅腸《かんちょう》というをした。
皆川医学士を始め、医局に居る学士達はかわるがわる回診に来た。時には、学生らしい人も一緒に随い
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